ワインへのリトルリベンジ
 本文◎山田富士郎(歌人・評論家)
食と文化の物語 winewine
 
その老人の眼差しには「慈愛」の優しさが溢れていたに違いない・・・。有名な「てまり」の歌のせいだろうか。私たちはなぜか良寛にそうした印象を抱く。長命であった良寛に老いの理想のひとつの姿を見ているのかもしれない。確かに良寛にはそうした側面もあった。けれども、夏目漱石が畏怖し、魯山人が憧れた良寛。「最も日本人らしい日本人」と唐木順三が指摘し、川端康成が「良寛は日本の真髄を伝えた」と記すに至るまで、その存在の大きさははかりしれない。「定年」「退職」という言葉が人生を区切る時代。宗門の戒めに背いて酒を愛し、煙草も吸いながら「隠遁」生活を送り、多数の詩歌を詠んだ「良寛」という懐かしい風景をすこし覗いてみた。
 
山田氏撮影による初夏の五合庵。良寛は越後に生まれ、諸国を遊行。故郷に戻ってからはこの五合庵で暮らし、多くの詩歌や書を遺した。有名な「霞たつながき春日を子供らと手まりつきつつこの日暮らしつ」という歌からは、子供らと語らい遊びに興じる優しい老人としての良寛像が浮かぶ。
良寛が生きた時代、1783年には浅間山が噴火し、深刻な「天明の大飢饉」が起きている。
 
 上越新幹線で新潟県に入り、「米百俵」の故事で知られる長岡を過ぎたあたりから、連なった三つの山が左手に見えてくる。左から順に、国上山(くがみやま)、弥彦山、角田山(かくだやま)で、佐渡島と共に佐渡弥彦国定公園に指定されている。いずれも優しい姿をした低山である。
 国上山は三つの山の中で最も低く、313メートルしかないが、その中腹には、良寛が18年間にわたって住んだ五合庵がある。昼間訪れても寂しい場所に立つ八畳ほどの庵である。
 五合庵はもともと、国上山の古刹国上寺(こくじょうじ)の住職のための隠居所であった。おもしろいことに、良寛は曹洞宗の禅僧であるのに、国上寺は真言宗の寺なのである。良寛は酒や煙草を好み、書と詩歌に没頭した。「文筆詩歌」を捨てるべきだと語ったのは他ならぬ曹洞宗の宗祖道元であるし、「葷(くん)酒山門に入るを許さず」という禅宗の標語は言うまでもない。つまり、良寛は禅僧としてはかなり規格はずれの自由な生活を五合庵で送った。

 いざここにわが身は老いむあしびきの国上の山の松の下陰

 山棲みのあはれを誰に語らましあかざ籠(こ)に入れかへるゆふぐれ
 
 五合庵時代の歌である。2首目の歌に出てくる「あかざ」は、食用のために自ら摘んだものだろう。
 ここで良寛の食生活を覗いてみよう。托鉢が良寛の主な生活手段であったのはもちろんだが、他に、パトロンと呼んでいい一群の人々がいた。名主をつとめるような富裕な人々である。良寛の現存する手紙のうちのかなりのものは、それらのパトロンから贈られた生活用品や食物に対する礼状にほかならない。そこにあげられた食品と嗜好品を煩をいとわず列挙してみよう。

山芋、百合根(ゆりね)、茄子、にんじん、牛蒡(こぼう)、茗荷(みょうが)、芹(せり)、ぜんまい、大豆、米、白麦、昆布、あおさ、海苔、海松布(みるめ)、鮒(ふな)、味噌、葛粉(くずこ)、砂糖、麩(ふ)、そうめん、納豆、菊の味噌漬、油揚げ、かんぴょう、わさび、梅干、餅、茶、酒、濁酒、煙草、羊羹(ようかん)、白雪羔(こう)

 魚介類がほとんど出てこないことを除けば、特に変ったところはない。当時の新潟の農民が日常的に食べていたものばかりだと思われる。やや珍しいのは白雪羔で、これは良寛が特に好んだ菓子である。白雪羔は現在も市販されていて、落雁(らくがん)をソフトにしたような上品な菓子だが、良寛が食べていたものと同じかどうかはわからない。いずれにせよ、先の食品リストを眺めると、ローカロリーの健康食のイメージが浮かんでくる。
【白雪羔(こう)】
江戸時代前期の百科事典「和漢三才図会」にその記載がある。もち米と砂糖が主原料で、最初は薬用として用いられたものが次第に上等の菓子として食されるようになった。乳の出が悪いとき、乳飲み子にこれをお湯にといて与えることもあったらしい。良寛がそうした知人のため、菓子屋三十郎という人物に宛てて書いた「白雪羔少々御恵多ま者利多く(たまはりたく)候」という手紙が残っている。
写真は出雲崎の「大黒屋」という菓子店が資料をもとに独自に再現したもの
日本人原風景としての「良寛」
 良寛に親しみや懐かしさを感じる人は多いが、それは、後半生の良寛が世捨て人として自由に生き、風雅に遊んだことが大きいだろう。西行、鴨長明あたりに始まり、兼好法師、芭蕉、良寛へと連なる系譜に、われわれ日本人は格別の親しみを覚えるものらしい。尾崎放哉や種田山頭火の人気にも同じことがいえる。
 生まれつき立身出世に気が向かず
 ぼんやり自然のままに生きている
 嚢(ふくろ)の中には三升の米
 炉辺には一束の薪
 迷いや悟りも問題ではなく
 名利はどうでもよい
 雨の降りそそぐ草庵のうちに
 気ままに雨脚を伸ばしている

早苗田に陰を落とす国上山
 もっともよく知られた良寛の漢詩を訳してみた。この詩について触れながら、唐木順三は「良寛にはどこか日本人の原型のやうなところ、最後はあそこだといふやうなところがある」という。うなずかれる方も多いのではないだろうか。
 文政十一年(1828)に、近隣の三条に大地震があり、多くの死者が出た時、良寛はパトロンの一人にあてて、「災難に逢時節(あうじせつ)には、災難に逢(あう)がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」と書いている。この文面には、さすがに本格的な修業を積んだ禅僧としての面目があらわれている。こうした死生観は、かつての日本人にはごく普通だったようにもおもう。筆者は昭和二十五年生まれで、家の宗旨はキリスト教である。にもかかわらず、良寛の上の言葉にはいたく共感してしまう。
 良寛は満年齢で七十三歳まで生きた。現在の日本人男子の平均年齢に近く、江戸時代としてはかなり長命である。医師の藤井正宣によれば、良寛の死因は直腸がん、ないしは結腸がんであろうという。現在の進歩した早期発見と治療の技術をもってすれば、なおかなりの余命を保つことができたであろう。

 二週間ほど前、五合庵とその周辺を歩いてみた。あたりは江戸時代の雰囲気が残るようなのんびりした田園地帯である。良寛が托鉢に歩いた海辺の路に立つと、砂浜には夥しい漂着物があった。海草や漁網の浮きはあって当然だが、ペットボトルや発泡スチロールがひどく目につく。ぎょっとしたのはサッカーボールを発見した時だ。見まちがいかとおもったが、いくら目を凝らして見ても、それはサッカーボール以外の何ものでもなかった。平成の日本では、良寛の愛した手毬ではなく、サッカーボールが渚に打ちあげられるのである。あらためて良寛と自分を隔てる二百年の歳月をおもい、次の一首を詠んだ。

 良寛の歩みし路に見たりけり波打際のサッカーボール   富士郎
 
 
現代の精進料理(精進略膳一汁三菜)

良寛は禅僧であったが、新潟で身を寄せた寺院は真言宗。当然、食は穀菜を中心とした精進料理ということになる。良寛の場合はお酒も楽しんでいたらしいが‥・。写真は高野山で修業した眞天庵庵主・須永晃仁氏の手による現代の精進料理。一目で健康になりそうな料理には自ら育てた「素(す)の物」を使い修業として料理に取り組む。食材は良寛の頃とあまり変わらないが、天麩羅はどうだろう。天明年間(1781〜88)には江戸の町に登場していた、という記録はあるが。
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