春爛漫、桜前線が列島を北上するなか、三春滝桜は見事な紅色の衣をまとう。一説には千年にも及ぶという生命力を持つ紅枝垂れ桜の老樹は、多くの人に寄り添い、その心を魅了してきた。滝桜を守り、人生の時間をともにした人々の物語りに思いを馳せながら、今年も滝桜のもとを訪ね、壮麗な花を見上げてみたい。

紅枝垂れ桜逍遙/滝桜とその一族をめぐって

三春滝桜の樹齢
 混雑する駐車場に車を駐め、歩いてトンネルに入る。しばらくして開けた土地に抜けると、賑やかな茶店と人混みの向こうに紅色の大樹がある。三春滝桜だ。この世のものとは思えない見事さに、思わずため息が洩れる。昨年だけで20万人が訪れたというが、三春の人たちばかりではなく、滝桜は万人の心を魅了してきた。ところがその歴史については実は分からないことが多いという。
 その名は江戸時代から全国に知られていた。記録によれば、天保6年(1835年)には三春藩士草川次栄が上洛してその見事な様を報告している
 都まで音に聞こえし滝桜 いろ香を誘へ 花の春風(大炊御紋 前内大臣 経久)
 そのときに詠まれた歌である。当時、すでに滝桜は今のように立派な大樹であったことが伺える。しかし、滝桜に関する記録は皆無に等しく、樹齢についても定かではない。
 天然記念物に指定されたとき、調査鑑定にあたった東大教授、三好学氏は1922年(大正11年)当時、推定樹齢を600年とした。だが、特に根拠があったわけではないらしい。当時、桜の寿命はそれが限度と考えられていたらしく、桜の老樹はすべて600年として報告されているのだ。

伊東正義氏
(『樹齢1000年の三春滝桜』の著者)

 「科学的に調査してみれば、すぐに決着がつきそうに思うかもしれませんが、滝桜は中心が空洞となっていた時代があるため、実は年輪観察から樹齢を推定できないのです。同じ理由で炭素年代測定も不可能。三春に伝わる伝承としての樹齢は1000年です。調べてみると、この伝承を素直に信じたい気持ちになります」
 そう語るのは、郷土史家で日本さくらの会会員の伊東正義氏である。平成6年、三春滝桜に関する考察を『樹齢一〇〇〇年の三春滝桜』として一冊の本にまとめた。
聞き取り調査から
 「現地で複数の聞き取り調査をしてみると、子どもの頃に滝桜周辺で遊んだという人たちは、根もとに子どもたちが入れる大きな洞があって、そのなかで遊んでいたと言うのです。戦後すぐの頃です。そのうち、16本の細い根(気根)が空洞の中に育ち、それぞれが電柱のような太さになった。それらがいつの間にか空間を埋めて、古い形成層とも一体化してしまったわけです。これが滝桜の生命力の秘密だと考えられます」
 つまり、滝桜は芯の部分が逆に新しいことになる。こうした特異な若返りが100年を超える単位で繰り返されているとすれば、滝桜が通常の枝垂れ桜よりも圧倒的な長寿である可能性は高まる。
 「一方、1590年に豊臣秀吉の奥州仕置きにより田村氏は改易となりますが、秋田氏が三春に入るとき、滝桜はすでに現在の姿に近い大樹であったと言われています。田村氏の菩提寺は三春の福聚寺であり、境内には見事な枝垂れ桜が7本あって室町時代のものとされていますが、それらは滝桜の子にあたるものです。ですから、滝桜の樹齢は、そこから数百年は遡ると考えるのが自然なのです」
三春を彩る枝垂れ桜たち
 ところで、滝桜周辺の地域には興味深い伝承がある。「三春には実に多くの枝垂れ桜があるが、増やしたのは小鳥。滝桜の種をついばみ、野山に糞をする。消化されないその種は発芽して育ち、子や孫が増えていった」というものだ。


 伝承の真偽も含めて、そうした滝桜と周辺にある枝垂れ桜の由来や状況を、きちんと調べた人はいなかった。実測調査によって記録にまとめられたのは今から50年前、柳沼吉四郎さんと木目沢伝重郎さんという二人の老人によるものである。
 三春町に柳沼吉四郎さんという植木を育てて三代目という人がいて、滝桜の種を全国に普及させた。その功労で日本桜の会から表彰を受けたが、そのうちに滝桜を原木にして周辺に広がる枝垂れ桜を調べてみようと一念発起し、郷土史家の木目沢氏に協力を求めた。それまでは誰も手をつけなかった実態調査だ。
 すべて徒歩による調査である。夏の探訪は汗まみれ。蝮や青大将の群れに驚かされながら手作業の測定を進めていった。にわか雨に見舞われればお堂や神社の縁で雨宿り。足を棒にして大滝根山の高嶺を超えたときには「こんな探訪は止めようか」と思ったという。
 こうした探索を元郡山市中央図書館長の佐藤晃二さんは「桜遍路は『人生の行』の如く、ゆっくり、焦らず桜を探す道行きだった」と紹介しているが、10年間にも及ぶ二人三脚の様子は興味深い。
 柳沼さんはいい庭園があると調査はそっちのけ、木目沢さんも供養塔や古い碑を見つけると、それに気をとられ、時間を忘れてしまうのだという。
 誰に頼まれたわけでもない。家人たちからは「今日はどこまで行ったやら」とあきれられた。
 調べた結果、田村郡内には滝桜を中心にして半径10キロ以内に根廻り1メートル以上のしだれ桜が420本以上分布していることが分かった。枝垂れ桜は滝桜から同心円状に広がり、遠ざかるほど幹は細くなり、数も少なくなっていたという。それらは滝桜の子や孫にあたる。二人は調査結果を『田村の桜紅枝垂収録』にまとめた。その中には現在の郡山市中田町の枝垂れ桜も含まれている。

左から木目沢伝重郎氏
柳沼吉四郎夫妻

 「その本には滝桜の子や孫の樹は神社仏閣、旧家、旧墓地に多いこと、隣接する石川郡(笠間領)の枝垂れ桜は滝桜のものとは品種が違うことが実感として記されています。
 田村氏、秋田氏が枝垂れ桜を領内に広げることに深い関わりを持っていたことは間違いない。特に秋田氏は枝垂れ桜を『お止め木』として藩外に持ち出すことを戒めています。枝垂れ桜は、言わば三春藩の木であり、領地を示すものであったと言えるのですね」と、伊藤氏は解説する。
枝垂れ桜の謎
 さて、エドヒガンの桜は里山に華麗に咲く花であり、関東以北の稲作の時期と整合性があるため、田打ち桜、種蒔き桜などと呼ばれ、農事暦を担う大切な桜として各地で守られてきた。その突然変異として枝垂れ桜はある。三春滝桜はそのなかで最も古い老樹である。
 「ところが、それがどこからもたらされたか調べてみると、謎に行き当たるのです。枝垂れは野生種であるエドヒガンの突然変異です。以前、会津を含めて福島県内を調査したことがあるのですが、県内にはエドヒガンの自生地はないんです。しかも、古い枝垂れ桜を調査してみると、エドヒガンの老木はすべて人の手によって植えられたものでした」
 伊藤氏もまた滝桜に魅せられた一人なのである。三春から東京、京都、奈良、岐阜、山梨、新潟、そして再び福島県、三春町へと枝垂れ桜を見つめる旅を続けてきた。
 三春の滝桜はどこからやってきたのか。想像の彼方に思うしかないが、枝垂れ桜は希少な美しさと花の枝が地面を指すような不思議さから神の依り代とも見なされ、信仰の対象ともなっていた。
 「京都には平安神宮や円山公園、醍醐の桜など、たくさんの枝垂れ桜の銘木があり、都人に愛されてきた歴史があります。今から遡れば千三百年にも及ぶ歴史です。平安の時代、田村の床の所有者である『本家』は京にあったことも合わせて考えると、京の都の枝垂れ桜に対する畏怖や信仰が、同時代、遠く三春の地にももたらされていたと考えられるわけです」
 樹齢千年を超えるという伝承はそれと遠く響き合うものだ。
 神の依り代としての信仰。満開の滝桜を見上げれば、それは素直に納得できる。人の力を超えた不思議な力。その種が小鳥に運ばれ、山野に花を咲かせていれば、有り難く持ち帰り、集落の要のような場所に移植したくなるのは想像に難くない。
滝桜の子孫樹を育てる
 柳沼家では、今も滝桜の種から苗を育てている。やり方は吉四郎さんが工夫した方法と同じだ。吉四郎さんが亡くなられてからは、息子の長左エ門さんと嫁のハナさんが、そして今は孫にあたる吉一さんがそれを受けついでいる。
 7月に種を拾い、洗ってタオルに包み、雑菌のない土に春まで埋める。乾燥させてはいけない。凍らせてもいけない。健康に気をつけながら、その種を3月頃に蒔き、大切に苗に育てる。それを畑に移し、4~5年すると高さ1・5メートルほどに育つ。6年程で花を咲かせるが、枝垂れるのは10本に3本程の割合だ。それでも滝桜の種は枝垂れる率が高いのだという。通常、エドヒガンからは5合の種をまいても10本ほどしか枝垂れ桜は生まれない。

滝桜の苗の生育を見守る
柳沼吉一さん。種から芽生えた
実生の桜は寿命も長いという

 「滝桜みでえなのは化け物だわ」
 木目沢伝重郎さんは生前そう語っていたという。
 接ぎ木で増やす方法も含めて、三春では農家など7軒が滝桜の生産を続けている。滝桜の人気も高くなり、苗木がほしいという声も多くなってきたからだ。
 東京都心のTBS放送センターを中心とした複合施設「赤坂サカス」の中心で、シンボルとされる紅枝垂桜は「滝桜」の子孫樹である。世界的な指揮者、カラヤンの生誕百年記念式典ではオーストリア、ザルツブルクのカラヤン自宅前に滝桜が植えられた。昨年4月には総合南東北福祉センターでも十周年を記念して寄贈された滝桜の孫樹が植樹されている。
 「今、中東のカタールからも植樹の打診がきています。韓国にも送りました。外国の人でも、一度見ると枝垂れ桜が目に焼き付いて忘れられないという人が多いんですよ」と吉一さんは言う。
 自宅前のビニールハウスで芽を出して育ち始めた滝桜の苗を見つめる表情は真剣そのもの。『桜守り』という言葉があるが、まるで子守りをするように、桜には独特の気配りが必要なのだ。今年2月、宇宙飛行士の若田光一さんと宇宙を旅した滝桜の種が、三春町の小学生たちの手で校庭に蒔かれたが、吉一さんはその世話を頼まれ、春休みには毎日のように小学校に通っていたという。

柳沼吉一さんと妻の喜久子さん。
祖父の吉四郎さんが滝桜の種を拾い自宅に植えた
という『谷都の桜』(樹齢50年超)の前で。
まるで桃源郷のような風景が広がる庭先には、
春を呼ぶ野鳥の囀りが溢れる。
母のハナさんも滝桜が有名になる前から堆肥を与え、
草刈りをするなど、滝桜をいたわり守り続けた。

 これからも滝桜は三春の里を彩り、巡礼のように訪れる人を静かに待ち続けることだろう。そして千年にもわたる命の奇跡は、滝桜に魅せられた人々の物語りとともに後世へと語り継がれるに違いない。

滝桜の記念植樹
郡山市日和田町に開設された南東北福祉事業団の
総合南東北福祉センターでは、「10周年記念式典」(2009年4月)
に伊藤美栄子さん(利用者代表)から寄贈された
三春滝桜の子孫樹の苗を渡邉一夫理事長らが鍬入れ、植樹しました。

 

前林公園の滝桜(紅枝垂れ桜)
南東北がん陽子線治療センターの開設(2008年10月19日)
を記念して、一般財団法人脳神経疾患研究所と安藤建設株式会社は、センター建設に理解と支援を下さった八山田七丁目町内会に対して滝桜の子孫樹を寄贈した。記念樹は南東北医療クリニック前の郡山市前林公園に植樹され、翌年春には紅色の華麗な花を咲かせている。

 

赤坂サカスの滝桜(紅枝垂れ桜) 開花時期は3月下旬から4月上旬