ご挨拶

南東北グループ 理事長 渡 邉 一 夫

 この度、東日本大震災により被害を受けられた皆様に、心よりお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。
 南東北病院グループでは、激甚災害の上、原発事故による放射能漏洩による風評被害を乗り越え、いち早く、3月22日から各病院の機能は全て平常運営に復帰しました。
 郡山の総合南東北病院の医療機器は点検作業の結果、故障も一分の狂いもなく、陽子線治療機器やPET、サイクロトロン、MRI、CT、ガンマナイフ、その他の全ての機器類も正常に稼働しております。
 また、物流も全く途絶えている中、1000人の職員は一丸となってパニックで怯える多くの患者さんの診療にあたりました。5000人の南東北グループ全てが一丸となって行動した成果だと思っています。
 震災後は、福島県郡山市の総合南東北病院と福島県福島市の南東北福島病院を拠点に、宮城県岩沼市の総合南東北病院まで水、食べ物、オムツ、医療機器、医薬品、その他の物流を多い時は1日3台のトラックで夜を徹して運びました。
 宮城県岩沼市の総合南東北病院は、震度6強の影響で発生した津波が、病院手前にある駐車場まで迫りましたが、職員は動揺を乗り越え、なだれ込む多くの患者さんの対応にあたりました。ただ、産後で休んでいた看護職員が津波の犠牲者になったほか、30人の職員の家族も津波の犠牲となってしまいましたことは、残念の極みであります。
 今、南東北グループの職員全員は医療人・福祉人としての使命感と奉仕の精神で黙々と日夜業務に励んでいます。皆様と共に、一日も早い地域の復興を実現するべく、引き続き尽力して参ります。

 

東日本大震災ドキュメント

国内観測史上最大規模の巨大地震が東日本を襲った。宮城県牡鹿半島沖約130キロの海底を震源とし、宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れが観測された。この地震と津波による被害は甚大で、震災から約1カ月が経った4月9日現在、死者約1万3000人、行方不明者約1万5000人、そして15万5000人が未だ避難生活を続けている。南東北グループの医療・福祉施設も被災するなかで病院が医療機能を維持し、復旧に至るまでの知られざる取り組みを記録する。
東北地方太平洋沖地震

地震直後の救急センター

 3月11日(金)午後2時46分、東北地方太平洋沖で巨大地震が発生した。マグニチュード9.0。国内の観測史上最大の地震だった。経験したこともない大きな横揺れは3分以上続き、その後大津波が東北から関東の太平洋岸の広い地域を襲った。
 交通機関は止まった。首都圏では帰宅困難者が溢れ、予想もしなかった広域災害は東北各地の医療機関にも及んだ。
 郡山市の総合南東北病院でも、強い横揺れが続くなか、あちこちで悲鳴があがった。非常用電源により停電は免れたが、エレベーターは緊急停止された。強い余震が続くなか、病院職員らによって入院、外来患者さんの安全確保と、避難誘導が行われた。幸いなことに人的な被害、出火、建物の大きな損壊などはなかったが、院内は騒然としていた。
 通常の診療は中止され、すぐに建物の安全確認と、検査治療機器等の点検作業が平行して行われていく。
 総合南東北病院は高度医療を担い、461床の病床を持つ。脳神経外科やがん、循環器系の患者さんたちが多いのも特長だ。術後すぐの入院患者さんもいる。地震直後、ナースセンターや倉庫室の戸棚は倒れ、薬品も床に散乱したが、患者さんたちに重傷者が出なかったことは幸いだった。次々に非番の医師や看護師、職員たちが病院に駆けつけた。患者さんへの声かけを行い、点滴や人工呼吸器、酸素吸入器の装着点検等が行われ、以後不眠不休の状態がしばらく続くこととなる。

 水道の断水は深刻だった。病院では手術や透析用の水も必要だし、飲料水、あるいはボイラー用の水も必要となる。なかでも水洗トイレの断水には悩まされた。そこで水をバケツに汲んでトイレに置き、自分でトイレを流せるようにした。その水は温泉や井戸から病院職員たちが総出で運んだ。
 通信は途絶え、物流の停滞が深刻な影響を及ぼし始めていた。何よりも地域のガソリンが枯渇していく。ガソリンがなければ車は動かず物資も入らない。在宅介護にも支障が出るし、医薬品が底をつけば病院の機能は維持できなくなる。入院患者さんへの食事、介護用の消耗品も心配された。
宮城県岩沼市の被災
 南東北グループは宮城県岩沼市や青森県八戸市をはじめ、福島市、三春町、田村市大越などの医療施設とともに東北地方に多数の福祉施設を展開している。
 各施設の被災状況のなかでは、特に岩沼市の状況が心配された。海沿いの一帯が大津波に襲われていたからだ。病院は内陸にあるとはいえ、海岸から平地が続くため最悪のケースも懸念されていたのだ。
 病院の建物は無事だったが、すぐ目の前の病院駐車場まで津波は届いていた。
 地震直後から、病院には負傷者や津波による低体温症の救急搬入が殺到した。幸いにも建物の損壊や患者、利用者、勤務中の職員への大きな被害はなかったが、停電、断水とともに電話は通じなくなり、交通機関も完全に麻痺していた。エレベーターが使えないため患者さんを3階まで担架で運んだ。271床のベッドに空きはなかったが、患者さんを救うために部屋のベッド数を増やし、重傷者を受け入れた。
 夜、停電で真っ暗な病棟には懐中電灯が灯され、その明かりを頼りに医療と看護が展開された。「早く朝になって明るくなってほしい」と誰もが願った夜は4夜続いたという。
 津波はたくさんの犠牲者を生んだ。家族の安否が分からない職員もいた。医師、看護師、職員たちも震災で被災していたが、通常診療が再開されるまでの3週間、食料さえも乏しい病院のなかで必死で医療を支えていた。家を流された者も多く、病院では市内のアパートを住居として借り上げ、スタッフを支えた。

物資輸送が滞るなかで
 各地の被災地では物資輸送が滞っていた。ガソリンは底をつき医薬品や食料その他の物資不足は日々深刻になっていく。
 その頃、最初の支援物資が首都圏から病院に向けて運ばれていた。東京病院や東京クリニック、その他関連団体が取引先各社へ支援要請を行い、自主的に取り組んだ支援である。手分けして医薬品や飲料水、食料や紙おむつなどの救援物資を調達し、知り合いの運送会社の好意で急きょ大型トラックを緊急車両として手配し運んでいたものだ。
 支援物資は全国老人保健施設協会をはじめ、各種団体からも届き始めた。医療機器、医薬品、食料、その他の物資は郡山市の総合南東北病院と福島市の南東北福島病院に集められた。これらは両院を拠点として岩沼へと多い時は1日3台のトラックで夜を徹して運ばれることになる。

 病院機能は多くの人たちによって支えられていた。院外の調剤薬局のストック分のおかげで薬品の枯渇はある程度しのぐことができた。また、震災後被災地を襲った寒さをしのぐためのボイラー用軽油は近隣のスタンドが補充を引き受けてくれた。通常取引のないスタンドだったが、病院だからと優先的に支援の手をさしのべてくれたのである。断水には市や自衛隊ばかりではなく、知り合いの建設会社も給水車を派遣をしてくれた。
 岩沼市の総合南東北病院ではライフラインが途絶えたなか、入院患者さんたちに温かな食事が支給されたことがあった。これはある外食チェーンのご好意によるもので、東京の南東北グループからの支援要請に応え、仙台の店舗から急ぎ提供してくれたものだった。後日、その会社は病院との直接の取引もない立場であったことを関係者は知り、恐縮させられることになる。
地域と被災者を支える
 郡山市の総合南東北病院では高度先進医療機器を数多く備えている。建屋には高い耐震性が備えられており、陽子線治療機器やPET、MRI、CT、ガンマナイフ、などに損傷はなかったが、点検の結果、全ての機器類が正常に稼働することが分かった。
 病院は3月14日から一般外来を再開、3月22日からはグループの病院機能は全て平常通りの診療・検査体制に復帰している。
 地域の医療システムも十分に機能しきれない状況が続くなか、津波と原発事故によって治療が困難となった地域からは新規に70人の人工透析患者さんを受け入れた。それ以外の疾患の患者さんも同様である。病床は当然不足し、軽症の入院患者さんは関連の病院、福祉施設に転院を進め、それでも足りない病床はほかの医療機関に交渉し、医療難民が生じないように最大限の努力を続けた。
 被災地の状況は個々に違いはあるが、避難所にはかかりつけ医のカルテもなく、高血圧などで普段飲んでいる薬の手持ちがなくなり、不安を抱えている方も多い。
 お年寄りなどで体調を崩される方もいる。慢性病の悪化、精神的なストレスや、栄養の偏り、風邪やインフルエンザなど感染症への対策も怠れない。ヘルパーの介護が必要な高齢者もいる。
 郡山市の大型コンベンションホール『ビッグパレットふくしま』には富岡町と川内村の役場機能が移転し、最大時でおよそ2500人が避難していた。  「ここには一緒に避難してきた医師、歯科医師の方もいて、皆さんの診療にもあたっていただいているのですが、必要な機材もそろわない状況です。総合南東北病院には30人ほどがまとまってバスで伺い、診療をお願いしたりすることもあります」
 避難所の保健師さんのお話しだ。そのほかにも救急搬送が一日3件に及ぶこともあるという。

 医療の受け皿として地域の拠点病院が担う役割は大きい。3月の救急搬送数は通常の約2倍に達したという。震災の直接被害ばかりではなく、急性期から慢性期にわたり地域の医療を支えるためには震災という緊急時にも病院機能の喪失を防ぐ手立てが必要だ。もとより国や行政の支援は欠かせないが、医師、看護師らの懸命の努力とともに、グループ内、病院間、あるいは人的な協力が大きな力となった。
 被災地にはまだ断水が続き物資も届かないところがある。総合南東北病院では、三陸の甚大な津波被災地へも医師、看護師を派遣しているという。地域の復興のためにも、医療が人々を支えていくことが求められている。


ビッグパレットふくしまの医療相談コーナー

避難所の健康と医療
 郡山市の『ビッグパレットふくしま』には富岡町、川内村などの皆さんが避難生活を余儀なくされている。
 避難所では保健師とボランティアの皆さんによって避難者約2500人(4月5日現在)の健康を守る活動が続けられている。
 郡山市の医師会はじめ理学療法士会などによる医療・介護支援も行われいるが、避難所生活は1カ月を超え、足の裏の血液の流れが悪化して血のかたまりができ肺がつまるエコノミークラス症候群、体を動かす機会が減ることで心身の機能が落ちる生活不活発病などが心配されている。
 また、口腔の衛生状態が健全に保たれないと高齢者の誤嚥性(ごえんせい)肺炎などの疾患が増加することから、歯科医や歯科技工士らによる口腔ケア・口腔衛生指導も行われている。