陶吉郎窯 福島県いわき市江畑町塙72-30
大堀相馬焼「陶吉郎窯」の窯主として伝統を継承しつつ、 再生した登り窯による焼締め作品、飴釉作品、青彩油滴作品などを中心に作陶を続けてきた。日展入選19回の実績を誇る。平成2年にはキリンビール夏のキャンペーン「陶製ゴブレット」を制作。
3.11以降は避難生活を強いられたが、作陶へのやみ難い思いから、3か月後にはいわき市江畑町に工房を据え、いち早く製作を再開した。工房の広い和室には、被害をまぬがれた作品も数多く展示されている。
現在は繊細な造型をほどこした象嵌作品に挑み、今年の第52回日本現代工芸美術展ではNHK会長賞に選ばれている。
大陶窯 福島県双葉郡浪江町大字小野田字清水35(転居地未定)
1972年生まれ。愛知県瀬戸市で窯業を学んだ。父は陶俊明氏。「大陶窯」では伝統的な作品を制作するかたわら作家活動を開始。白を基調に独自の色味と温もりが感じられる白磁作品が人気を集めている。朝日現代クラフト展、ビアマグランカイ金津の森酒の器展入選ほか。
「大陶窯」は、開窯100年を記念して盛大なイベントを予定していたが、原発事故で中止せざるを得なくなった。現在、トシヒロ氏は愛知県瀬戸市の工房に制作の拠点を移し、父の俊明氏は福島県大玉村に暮らす。俊明氏は大堀相馬焼協同組合の共同窯を利用して少しずつ作陶を再開する予定。「大陶窯」の再興はまだ模索中だ。
吉峰窯 福島県双葉郡浪江町大堀字後畑148(転居地未定)
震災・原発事故のあと、津島から小高、鹿島などを経由して土湯温泉の知り合いの家に。都合7カ所ぐらいを転々とした。避難生活のなか、旧知の益子焼窯元共販センターから誘いがあり、陶芸教室で指導にあたっている。貫入青磁、花文貫入、炭化窯変などを得意とする。
事故直後は大堀に戻る考えもあったが、次第に無理だと思うようになった。息子さんも陶芸作家だが、今は別々に避難している。
家族が一緒になって作陶に打ち込める工房の建設を目指して、これまで土地を探してきた。「焼き物をするには400坪の土地が必要」であり簡単ではないが、「吉峰窯」再興に情熱を燃やす。
近徳 京月窯 福島市飯坂町平野字道南4
震災後の12月、避難先を転々とするなか、福島市飯坂町のフルーツライン近くに古民家を見つけ、「京月窯」を再開した。先の見えない生活のなかで疲れと焦りを感じていたが、いつまでも被災者ではいられない、前に進まなくては、と決意しての開窯だった。
新しい工房兼店舗はモダンなデザインで、黒い棚に色鮮やかな陶器が並ぶ。落ち着いて珈琲も楽しめ空間設計が魅力的だ。女性陶芸家らしい優しさを備えた、人が集い安らかに語らえる“場”でもある。
工房を訪ねると、浪江町から避難しているカップルが、結婚式を前に引き出物の打ち合わせをしていた。そんな光景が相応しい。
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震災前、浪江町ではそれぞれの窯元や作家達が作陶の可能性を探る独自の活動も続けられてきた。
そのなかに、毎年秋口に開かれていた「陶季味」展がある。
陶季味会員(竹鳳窯・吉田忠利、明月窯・長橋明人、いかりや窯・山田慎一氏)を中心に、大堀相馬焼の若手陶芸家有志が参画して開かれてきた新作陶芸展だ。
「陶季味」会では福島県ハイテクプラザの支援を受けて商品開発プロジェクトに取り組み、新しいデザインのブランド開発も進めてきた。
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震災後にも新しい動きは生まれている。松永窯の松永武士氏がプロデュースした新商品「SAKURA」は大河ドラマ「八重の桜」の公募コンペ「八重セレクション」クラフト(工芸品等)部門に選定され国内外に販売されることが決まった。
また同様に、松永武士氏は震災で割れた破片を使ったアクセサリーのブランド「Piece by Piece」をリリース。Yahoo!の東北ものづくり特集にも組み込まれている。
震災で砕けた大堀相馬焼の破片を丹念に加工し、「走り駒」をデザインしたものだ。
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一方、避難生活を続けながら東京で陶芸講師を務める栖鳳窯・山田茂男氏は、講座に参加された受講生たちに原発事故によって避難を余儀なくされた町民の現状を最初に語るという。
東京で暮らしていると、原発事故が風化してきているのではないかという実感があるからだ。
山田氏は全国に避難している浪江町民の心の支えになればと、「浪江焼麺太国」のメンバーとしてB1グランプリにも出場、「なみえ焼きそば」を通して町の存在を全国に発信する活動にも力を注ぎ、仲間達とともに東奔西走している。会場のブースでは、大堀相馬焼の展示や実演を行うこともあり、浪江町の伝統文化の紹介にも努めてきた。
大堀相馬焼協同組合でも、二本松市での「おおぼり復興まつり」をはじめ、各種団体の協力のもと、東京での「ろくろ実演」や販路開拓、海外の支援団体の招聘に応えて若手作家をヨーロッパに派遣するなど、大堀相馬焼の復興と情報発信への取り組みを進めている。
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避難や帰還の状況がどうなるかは分からない。だが、当分は帰れない状況のなかで、伝統の継承や産地の将来を危惧する声もある。(注)
やむを得ないことだが、福島市、二本松市、本宮市、郡山市、矢吹町、南相馬市など、窯元たちは別々の場所で再建に向けて動き始めた。
今後、大堀相馬焼という産地ブランドはどのような運命を迎えることになるか。原発事故後の希有な状況のなかでは、国や自治体との交渉、材料の調達や販路の開拓にも特別な労力を費やす必要もある。そのための拠点づくりも重要だ。
だが、それぞれの陶芸家、窯元たちの制作環境、暮らしの再生がなければ作陶さえも持続できない。創作にはそれぞれに道があり、生き方もある。ひとつの考え方だけが正しいわけでもない。
産地という場所を失ってしまった陶芸の未来。原発事故によって、それぞれが重い課題を課せられてしまった。
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