広報誌 SOUTHERN CROSS

 

福島の現在を訪ねて

震災、原発事故から4年が経った。福島の復興は進みつつあるが風化という言葉もささやかれ、長期的な支援策の必要性を求める声も多い。福島は現在、どのような状況にあるのだろうか。福島の現状に向き合おうとするひとびとや、福島から発信されるプロジェクトを通して、福島の現在を記録してみたい。

 有田の柿右衛門と今右衛門、そして唐津の中里太郎右衛門。佐賀の三右衛門と称され日本を代表する陶芸家だ。そのうちの二人、酒井田柿右衛門氏と中里太郎右衛門氏が福島を訪ね展示会が開催された。
 会場には十五代酒井田柿右衛門氏の作品約20点と十四代中里太郎右衞門の作品約10点のほか、両窯から計約200点が展示された。
 佐賀県をはじめとする九州の陶芸家らは、東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故直後からさまざまな展示会の開催を通じて福島県の復興を支援してきたが、震災から 4年が経過しようとするなかで、震災や原発事故を忘れることなく引続き福島にエールを送りたいとの思いから実現の運びとなった。


十五代酒井田柿右衛門と十四代中里太郎右衛門展示会ポスター/2015年4月10日(金)~4月21日(火)まで、福島県郡山市内で開催された。
 「今は亡き父、先代柿右衛門の遺志を継ぎ福島にやってまいりました。先代は仕事においては非常に厳しい人でした。
 陶芸家は陶芸家らしく器を通して被災者の皆さんの暮らしに少しでもお役に立ちたいとの一心でした」
 先代の十四代柿右衛門は重要無形文化財保持者(人間国宝)。江戸時代に途絶え十二代、十三代が復元した乳白色の素地「濁手(にごしで)」の技法を受け継ぐとともに、赤絵の新たなデザインで独自の境地を切り開いた。2013年、転移性肝腫瘍のため78歳で死去した。
 福島で起きた悲惨な出来事にも「自分にできる支援とは」「自分にしかできない支援とは」また「自分がしなければならない支援とは」と、病と闘いながらいつもそんなことを話していた。そんななか、思いついたのが今回の企画展だった。

 「震災から4年、あの凄惨な記憶も今では日本人の心の中から少しづつ消えようとしています。
 悲しいことだと思っています。私も父の遺志を継ぎたいと思い、福島にやってきました。
 絶対に風化させてはいけない。強くそう思っています」
 4月11日、郡山市の会場でうかがった十五代柿右衛門氏のお話である。
 福島を訪ね交流することで福島の現状について理解を深めたいと言う。
 中里太郎右衛門窯は古唐津の系譜を受け継ぐ。十二代は「たたき」と呼ばれる技法を復活し、唐津焼を再興させた重要無形文化財保持者(人間国宝)である。唐津焼は茶器として知られるとおり素朴であり独特の渋みを持つ。
 先代柿右衛門氏と福島での展示会の実現を約束していた十四代太郎右衛門氏は、4月18日、夕刻から始まる交流レセプションを前に会場に到着した。
 「唐津焼は400年以上の歴史の中で茶器としてまた日常の器として生活の中に豊かさや楽しみをもたらし、多くの人々に愛され寄り添ってきました。
 福島と佐賀、東と西で遠く離れた場所ではあっても、器に触れていただくことで唐津を身近に感じていただければ幸いです。この度のご縁が様々な課題を抱えながらも復旧への歩みを進めていらっしゃる皆様のお力添えになればと願っています」
 福島は個展を通じて縁のある場所。「これまで福島の方々からいただいたご恩に少しでもお応えしたいと思ってきました」と言う。佐賀県にも原発はあり、福島での事故は真剣に受けとめてきた。
 復興への歩を進めてきた福島。4年が過ぎてもいまだに続く避難という状況。その渦中にある大堀相馬焼の現状にも心を痛める。

土と器、大堀相馬焼と暮らしの記憶 展

浪江町の暮らしの記憶を確認共有し、次世代へ繋ぐ試み————— プロジェクト浪江

大堀相馬焼と浪江の暮らし
 大堀相馬焼は浪江町大堀地区に伝えられてきた福島県の伝統的工芸品である。
 300年とも言われる歴史を持ち、産地である旧大堀村には瀬戸奉行も置かれ、相馬中村藩の庇護のもと、東日本最大の瀬戸物産地として栄えた。今でも東北、北海道各地で当時の相馬古陶が発掘され、広域に流通していたことが知られている。
 益子焼に多大な影響を与えたという相馬焼である。職人たちの腕は確かで、当時の古陶には目を見はるものが多いと言う。
 幕末、大堀の窯元は200軒を超えていたほどだが、明治維新によって藩政は崩壊し、状況は一変した。産地は深刻な状況に陥ったと言われる。
 危機は何度か産地を襲った。第2次世界大戦のときもそうだった。だが、そのたびに窯元たちは危機を乗り越えてきた。
 大堀相馬焼は浪江町の日々の暮らしの記憶と分かちがたい。青ひびの焼き物はどこの家にもあり、父母や祖父母がいつも使っていた。たとえば、家の新築などの慶事には走り駒の絵皿や夫婦茶碗、酒器を贈ることも多く行われてきた。
「土と器、大堀相馬焼と暮らしの記憶展」(以下「土と器展」と略)は、そうした浪江町の暮らしの記憶を探り、後世に残し伝えていこうと企画された。

浪江町民のアイデンティティ
 「震災、原発事故、大堀相馬焼の器を使うのが特別に貴重な時間に思えるようになってきました。浪江町の暮らしは取り戻せません。ばらばらになってしまった浪江町民の暮らしを思うとき、その怒りをどこにぶつけていいか分からない、というのが本音です」
 講演会冒頭の挨拶で馬場有(ばば・たもつ)浪江町長から端的な発言があった。


「土と器、大堀相馬焼と暮らしの記憶展」チラシ
 「元の姿に戻してくれ、と言いたくても、元に戻ることは難しい。
 去年の町民意向調査では、浪江町に戻るという回答は18パーセントです。震災直後は60パーセントでした。やはり戻りたいですよ。ところが、日が経つにつれてどんどん少なくなる。これは仕方がないですよ。
 今、昔のようにきれいな場所を回復することはできなくても、戻りたいひとが戻れる場所をつくろうと努力しています。
 浪江町は復興ではなくて、土も水も放射性物質に汚染されたマイナスからのスタートです。時間はかかります。10年間の復興計画を建てて、もう5年目ですが、何も進んでいません。除染が行われたのもわずか15パーセントです。
 浪江町は言わば新しい町を創建しなければならないのです。私たちは長い時間を覚悟しなければなりません。だからこそ、記憶を次世代に継承し、浪江町民のアイデンティティを確認していきたいと思うのです」
 浪江町は、震災、原発事故によって双葉町や大熊町などの周辺自治体と同じく全町避難を強いられ、町民は全国に散り散りになった。原発事故から4年が過ぎても状況は変わらない。帰還を考えるにしても、相当に長期的な話になる。
 会場がある郡山市には浪江町民1700人が暮らし、将来を模索している。大堀相馬焼の窯元たちも例外ではない。震災前20軒を数えた窯元のうち、各地で12軒の窯元が工房の再建に漕ぎ着け、郡山市では2軒の窯元が作陶を再開している。
 だが、その大半は仮設工房であり、将来への不安が払拭されたわけではない。
 「土と器展」を主催したプロジェクト浪江の代表、鈴木大久氏は言う。
 「私たちを含めて、皆、不安を抱いていると思います。しかし、それぞれが新しい土地で暮らしや事業を再開しようとするとき、大堀相馬焼の器や窯元の皆さんの姿が、私たちに勇気を与えてくれてもいるのです」
 器にはふるさとの記憶を呼び覚ます力がある。帰ることのできないふるさとだが、日々を暮らしたふるさとが、今もそこにあることを思い出させる。ふるさとを美化するつもりはないが、プロジェクトを通して「誇りや前に進む力が湧きあがってくれれば」という願いもある。

ふるさとの記憶という視点

 鈴木大久氏は浪江町で代々家業の味噌屋を営んできた。原発事故によって地元の大豆や米、小麦や水は使えなくなった。風土のなかで培われた伝統の味をほかの土地で再現することは難しいし、仮に再現できたとしても、土地に根ざした商売だけに、味噌造りの依頼がどれだけあるかも分からない。商圏も失われているのだ。


講演会 トークセッション会場
 事業再生には大きな資金も必要となる。リスクも大きいが、仙台の知人の味噌屋で浪江の味を再生するための試行錯誤を繰り返してきた。いずれは小さな工場を南相馬市に再建することも考えている。
 「不条理な運命を強いられた浪江町民の意地のようなものかもしれません」
 これからは、味噌という地元の味の再生とともに、そこでどんな暮らしが営まれ、何が起きたのか、ふるさとの記憶として将来に伝えていくことが必要だと感じているという。
 そのため、イベント最終日に企画された講演会では。和光大学名誉教授(環境哲学)で不知火海総合学術調査団で団長を務めた最首悟氏を招き、水俣について学んだ。
 講演第二部は、末永福男氏が史料をもとに相馬古陶の魅力を紹介し、長い歴史のなかで多くの陶工たちが高い技術を注ぎ、さまざまな技法が取り入れられてきたことを示した。
 次に、福島県立博物館で主任学芸委員を務める小林めぐみさんが、同博物館が震災後に進めてきた多彩な文化プロジェクトを紹介し、特に飯舘村でのフィールドワークから「飯舘ミュージアム」として展開している具体的な事例について解説した。
 震災、原発事故を含めて、暮らしの記憶を残すことは意義深い。
 飯舘村の避難が始まるまで、村の老人がスーパーのチラシの裏に記録した放射線量の推移。郵便局が地域のサロンのような場所であったことを知ることができる局長からの聞き語り。畑でそばを栽培し、蜜蜂を飼っていた村人がスズメバチを捕まえて漬け込んだ焼酎。
 飯舘ミュージアムではこうした村の日常が垣間見れる断片のようなものごとを、村人の話しとともにミュージアムとして展開する。興味深いアプローチによって飯舘村の魅力が実感として伝わってくる。

江戸時代から明治、昭和初期まで大堀相馬焼の変遷を理解出来る展示コーナー(松永福男氏による蒐集史料)


生業の再生と持続へ向けて

 「土と器」の会場には11窯元の作品1000点あまりとともに、浪江町出身の新鋭女流歌人として震災原発事故を歌った三原由起子氏の作品や震災、原発事故後の浪江を撮影し続けてきた写真家、高木成幸氏の作品とともに、神戸大学槻橋修准教授(建築学)が進めてきた「失われた街」模型復元プロジェクトによる大堀地区の復元模型が展示された。
 また、独立したブースには末永氏がコレクションした大堀相馬の古陶が所狭しと並べられた。
 筒描きと呼ばれる手法で描かれた山水色絵の土瓶、勿来手と呼ばれる南部鉄器のような姿の壺。大堀相馬焼の特徴として知られる青ひび、走り駒、二重焼きとはまったく異なる歴史的な姿がそこにあった。
 「第二次世界大戦後の混乱のなか、米国への輸出が盛んに行われた時期があります。主力商品が、今に伝わる特徴の大堀相馬焼でした。二重焼きというのも、とても面白がられたようで、大量につくられ、大堀の産地は息を吹き返しました。しかし、それによって大堀相馬焼のイメージが固定観念のように固まってしまったということもあるのです」
 末永福男氏の指摘である。歴史を振り返れば、栄えた新鮮な感動をもたらす多彩な作品の存在と、陶工たちのエネルギーに驚かされることになる。
 大堀相馬焼は浪江町大堀地区の伝統工芸にほかならないが、それは生業としての側面を持つ。再生した窯も、これからどうなるかは誰にもわからない。
 だが、これまでも大堀相馬焼は歴史の節目で大きな危機に直面し、それを乗り越えてきた。


末永福男氏(浪江町文化財調査委員会・委員長/郷土史家/相馬古陶蒐集家)

鈴木大久氏(浪江町味噌の「こうじや」/プロジェクト浪江 代表)

小林めぐみさん(福島県立博物館主任学芸員)
 郡山市に工房を構えて再起した旧岳堂窯(現・あさか野窯)の志賀喜宏氏は郡山市の土を用いた新しい陶器ブランドづくりに情熱を傾ける。浪江町大堀の伝統と新しい土地との出会いが、これまでにはなかった産地を生み出し、新しい歴史をひらくことになるかもしれない。