あらたうと 青葉若葉の 日の光
日光、奥の細道への遥かな旅。

 芭蕉の文学の魅力に触れ、その足跡を追う旅に出てみたい、という思いを抱いたことはないだろうか。芭蕉が『奥の細道』の旅に出たのは元禄2年(1689)。46歳の春であった。東北は遥か道の奥。西行をはじめ多くの歌人が憧れた異郷でもあった。芭蕉の後ろ姿を追って、そのゆかりの地を訪ねる旅を始めてみたい。
 今回は99年、世界遺産に登録された日光山(世界遺産登録は「日光の社寺」として)。東武日光駅から日光山へと向かう道筋には土産物屋や旅館、茶店などが立ち並ぶ。ここは日本で最も古いリゾート地のひとつでもある。中禅寺湖、戦場ケ原、霧降高原、男体山と、圧倒的な自然が手つかずの魅力を湛えている。

陽明門 陽明門の竜と息 日光山輪王寺大猷院夜叉門
日光二荒山神社本社
日光の社寺。
写真左/日光東照宮の陽明門(国宝)。細部に至る工芸まで見尽くそうとすると1日かかってしまうことから、別名「日暮門(ひぐらしもん)」とも言われている。
写真中上/陽明門の竜(上)と息(いき、下)。「東照大権現」の額の下で2段に並んでいる。
写真右上/日光山輪王寺大猷院(たいゆういん)夜叉門(重文)。4体の夜叉を祀る。牡丹唐草の彫刻で飾られていることから、別名「牡丹門」とも言われる。
写真下/日光二荒山(ふたらさん)神社本社。神門より拝殿を望む。

 卯 月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

 日光のくだりである。「憚多く」(恐れ多く)、と芭蕉が筆を置いた日光山は、徳川家康を神として祀る。
 ここは、古くから修験道の聖地でもあった。勝道上人によって二荒山が開かれたのは奈良時代の末。最澄の比叡山や空海の高野山開山よりも早く、日本における山岳仏教の先駆けの地である。その後、芭蕉が記したように弘法大師空海が入山し、二荒を日光と改称した。江戸時代になると、天海大僧正が山王一実神道(天台宗)の教えで家康を神、すなわち東照大権現として祀ることになる。
 日 光山は鬱蒼と茂る老杉が日の光を遮り、荘厳な気配があたりを包んでいる。
 芭蕉が松島の月を思い描き、旅に憧れて深川を出立したのは3月末頃。日光には陰暦の4月1日に到着する。小雨もようの空のもと、今市の宿を発ち、昼過ぎ日光到着。ここでようやく雨が止んだ。

あらたうと青葉若葉の日の光
 御山を参拝したときの芭蕉の句はあまりにも有名だが、このとき実際に日の光が射したかどうかはあやしいらしい。この句は当初「あなたふと木の下暗も日の光」(『俳諧書留』)として記され、数度の改案・改稿の末にこの形になる。旅に随行した曽良の日記をあわせ読むと、『奥の細道』そのものが、旅の純粋なドキュメントではないことがよく分かる。実際の旅から5年をかけて、芭蕉は、旅を意図的に再構成し、創出したのだ。夢と現実の間を行き来するような俳諧紀行文学の誕生である。
 芭蕉によって示された文学の格調や世界観に、後世の私たちは憧れる。もちろん、芭蕉自身にも、西行をはじめとする先人たちの作品や漂泊の旅への憧れがあった。奥の細道冒頭の有名な一節「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人也。(中略)日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思いやまず」。漢語のニュアンスを絶妙に取り入れて、いささかきまりすぎている気もするが、こうした世界観はどこか日本人を惹きつける。
 芭蕉は「遊行乞食の意識と観念を磨いた」と評論家の松岡正剛氏は指摘している。実際の旅が「地元の名士たちにもてなされ、逗留しながらの旅」であったとしても、精神的な旅は孤独に、深い次元で行われていたと言えるのだろう。

日光山を訪ねて
 日光山に向かうと、大谷川にかかる『神橋』が見事な姿を見せた。朱塗りの赤い橋が背景の緑に映えて美しい。橋を渡り、輪王寺の入り口に到着。すぐに目に飛び込んでくるのは東照宮『陽明門』だ。極彩色の絢爛豪華さは、時代を超越した存在感がある。金箔を多用した色鮮やかな500体以上の彫刻が施され、独特の荘厳かつ絢爛たる美を醸し出す。なるほど、「日光を見ずして結構と言うなかれ」という格言が思い出される。
 そ れにしても、これはその時代の美意識の特長なのだろうか。日本的と言えば芭蕉や利休のわび、さび、の方がしっくりする気もするが、こうした極彩色の美意識も実は古くからある。外国人が日本に感じるエキゾティズムのひとつにも照応するものだろう。
 輪王寺『三仏堂』に入る。日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という3体の大仏(高さ8・5メートル)と、東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏が本尊として祀られている。拝ませて頂き、お堂の外に出た。
日光二荒山神社・神橋
日光二荒山神社 神橋
(ふたらさんじんじゃ しんきょう)

神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向の
ときのみ使用した。日光を象徴する建造物の
ひとつ。(重文)
 木漏れ日が眩しい。徳川家光の霊廟のある『大猷院』へと向かう。ひんやりとした空気のなか、ゆっくりと石段を登る。
 入り口の『仁王門』から、家光墓所前の『皇嘉門(こうかもん)』まで、意匠の異なる大小6つの門が境内を仕切り、門をくぐるたびに、別世界に入り込んでいくような印象を受ける。仁王門の金剛力士が、あるいは夜叉門の四夜叉が、訪れる者の心中を見透かしているようで、少し身構えてしまう。ここは聖域なのだ、とあらためて思う。老杉の森の厳かな静寂が異界の気を発しているようで、気楽な散策気分が少したじろぐ。
 そもそも家康は「遺体を久能山(静岡県)に納め、1周忌の後、日光山に小さい堂を建てよ」と遺言した。なぜ、日光なのか。江戸の鬼門の位置に京都の比叡山のような聖地を作り、江戸を守ろうとした、というのが一般的な解釈のようだが、本当のところはあまりよく分かっていないらしい。風水や陰陽道、星辰信仰(生前から家康は北極星に対する信仰が篤かったと言われている。北極星は宇宙を主宰する神)が謎を解くカギではないか、と言われてはいるが。ちなみに静岡県久能山は江戸の裏鬼門にあたる。
 遺言に従い、2代将軍徳川秀忠は廟舎を造営する。この時の規模は、今日の久能山東照宮とほぼ同じ。これが日光東照宮の創始とされ、その後、3代将軍家光によって大造替が行われ今日の絢爛豪華な社殿群となった。

裏見の滝
 さて、『奥の細道』に戻ろう。芭蕉がその夜宿泊した養源院はすでにその跡を杉木立の中に残すばかり。一夜の宿を借り、芭蕉と曽良は翌日、『裏見の滝』を訪れる。直線で約2、3キロの道のりだ。この滝は華厳滝・霧降滝とともに日光三名瀑のひとつに数えられる。
 駐事場に車をとめ、500メートルほど山道を上る。近づくにつれて滝の轟音が大きくなってくる。崖に遮られていた視界が一転して開けると、清浄な空間の奥に水しぶきを上げる滝が見えた。

廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。
岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
裏見の滝
裏見の滝

暫時は瀧に籠るや夏の初
 「夏」は「げ」と読み、夏行(げぎょう)、夏安居(げあんぎょ)ともいう。僧侶が、陰暦4月16日から7月15日までの30日間、一室に籠って修行すること。かつては滝の裏側が通路になっていて、そこから滝を見ることができた。芭蕉もそこに立ち止まり、滝の冷気を肌に感じたに違いない。この句を読む度に芭蕉の修行僧的な姿が連想される。
 芭蕉の生涯は51歳と意外に短い。しかも私たちが知る芭蕉らしさ、わび、さびの境地を開き始めるのは30歳を越えたあたりからだという。それからの20年。俳諧に賭け、自分を追い詰めた芭蕉はかろみの境地に至る。その間『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』という漂泊の旅を繰り返し、転居、小旅行も少なくない。何というエネルギーだろう。芭蕉の後ろ姿を追いかけるだけでも紙面は尽きてしまう。


イザベラ・バード著『日本奥地紀行』と日光金谷ホテル
 芭蕉の『奥の細道』以外にも日光に関する紀行文で忘れられないものがある。『日本奥地紀行』である。明治初頭の日本、言葉も分からない40歳を越えたイギリス人女性が、たった1人の通訳を連れて挑んだ探検記で、日光、会津、山形、青森、そして北海道までを旅した。当時の日本人や日本の町並みに対する率直な描写と細かい観察が興味深い貴重なルポである。日光の荘厳さに対する驚きも新鮮だ。『紀行』収録の手紙には「私はすでに日光に9日も滞在したのだから、『結構!』という資格がある」と、ユーモラスな一面も覗かせる。このときの滞在先が金谷家であり、現在の日光金谷ホテルだ。
 ここは、明治6年創業の日本最古のホテルで、東照宮の楽師・金谷善一郎が、ヘボン式ローマ字の提唱者ヘボン博士に自宅の一部を宿として提供したのが始まり。その後、『日本奥地紀行』での紹介もあって、海外の要人御用達のホテルとなった。大正時代、日光御用邸が開設されると、日光は国内外の要人の交歓・社交の場としてさらに発展、金谷ホテルも外国王室、国内宮家の宿泊に度々利用された。宿泊以外での利用も可能で、お昼には気軽にランチも楽しめる。散策の途中に立ち寄って、ゆっくりと一息つくのも楽しい。
日光金谷ホテル 日本奥地紀行
平凡社ライブラリーより
日光の湯波料理 日光の湯波(ゆば)料理
 京都では「湯葉」と書くが、日光では「湯波」と書く。引き上げたときのしわの様子から、もともとは「湯婆」と表記したらしい。日光の名水が育てた食である。疲れた身体にもさっぱりとして栄養満点。暑い夏には特に嬉しい。
 日光山境内や周辺にはこの湯波料理を供する店があちこちにあり、滋味深い味を楽しめる。(写真協力・清晃苑)
  
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