食と文化の物語り  蕎麦三昧 そば道楽事始め  
 
蕎麦の魅力を探る歴史と風土への旅
 
 日本各地で蕎麦祭りが開かれるようになった。蕎麦好きにとっては嬉しい限りである。「今年の蕎麦は上出来ですよ」そう言われるとなんだか得をした気持ちになる。
 新蕎麦は香りも新鮮で味わいも深い。ざるに盛られた蕎麦をすすると、日本古来の自然や風土を賞味しているような気がして、旨さが増す。その上、蕎麦にはポリフェノールの一種、ルチンが豊富に含まれており、動脈硬化の体質改善に効果が高いという“おまけ”までついている。ちょっとした旅行気分で車を走らせ、その土地の蕎麦屋を訪ね歩くのも楽しい。今回はそんな蕎麦の持つ魅力を探りながら、有名な蕎麦処のひとつ、福島県山都町を訪ねる旅に出てみたい。
飯豊連峰の麓にある山都町は標高400メートルを超える寒暖の差が激しい地域。古くから良質のそばの産地として知られてきた。宮古集落のほかにも駅周辺や一の木地区など町全体にそば店があり、第1回全日本素人名人・折笠和夫さんの店もある。今年になって、町は喜多方ラーメンで有名な喜多方市と合併した。
写真は
左上/そば伝承館(「飯豊とそばの里センター」内にあり、打ち立てそばも味わえる)
右上/山都町に広がるそば畑
右下/寒晒そば祭りの様子
   (寒晒そばは、玄蕎麦を約1ヶ月一ノ戸川の冷たい水に浸し、立春の日に取り出して乾燥
   させ、収蔵する。春でも風味豊かなそばが山都町内のそば店で供される)

 蕎 麦は江戸時代から、庶民の間で好まれた嗜好品でもある。酒好きと同じで、蕎麦に目がない蕎麦好きというのもどこかおかしく、愛すべき存在だったようだ。
 蕎麦好きをネタにした落語噺も多いし、夏目漱石の名作『吾輩は猫である』にも、蕎麦食いは姿を現わす。主人公の猫の飼い主・苦沙弥(くしゃみ)氏の友人の迷亭(めいてい)先生である。
 「打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼もしくないもんだよ」
 そう言うと迷亭先生は薬味をツユの中へ入れてむちゃくちゃにかき廻し、蕎麦食いお決まりの能書きをたれる。粋な姿を見せようとして、しまいには笑うに笑えない哀れな姿を晒すことになる。
 迷亭先生ではないが、ひきたて、うちたて、ゆでたて、という三たてを売りにする本格的な店も増えた。それぞれが理想とする蕎麦の姿は違っているが、通好みの店は全国にあり、洗練された味を競っている。
 こうした蕎麦の歴史を語る上で片倉康雄という人物は欠かせない。号は『友蕎子』(ゆうきょうし)。蕎麦聖と讃えられた蕎麦打ち名人である。片倉氏は大正15年、独学で蕎麦打ちを始め、新宿に『一茶庵』を開く。蕎麦好きの客を師とし、謙虚に腕を磨いていった。当時は蕎麦打ちに機械を使うのが当たり前となっていたが、氏は手打ちの蕎麦に丹精を込めた。陶芸や書の世界の巨人で、美食家でもあった北大路魯山人とも交流を得て、自作の器や道具にも凝った。繁盛していた場所を捨て、名水を求めて店を移転したという逸話も有名だ。後継者の育成・指導にも力を入れ、今の蕎麦打ち教室の原型をつくった。
片倉康雄氏(1904〜1997)
 片倉氏の蕎麦打ち教室で師範代を務めていたのが現代の蕎麦打ち名人、高橋邦弘氏である。NHK『趣味悠々』でもその名は広く知られているが、自家栽培や自家製粉にこだわり、“会心のそば”を追求する。その味もさることながら、蕎麦職人としての姿勢や、江戸っ子気質の快活で飾らない人柄を慕うファンも多い。現在はやはり名水を求めて広島県に移り、『達磨・雪花山房』で蕎麦打ちの指導を中心とした活動に取り組んでいる。全国各地で蕎麦打ちの普及にも努めているが、11月29日の『会津山都そば大学』が講師として招いているというから、何はさておき駆けつけてみることにした。
現代のそば打ち名人として知られる高橋邦弘氏、61歳。11月28・29日に開かれた『第5回会津山都そば大学』では講師としてそば打ちの指導に訪れた。
昼には氏が営む『達磨』手打ちのもりそばも用意され、その味を堪能することができた。薬味は本わさびとネギと辛味大根。
蕎麦打ちと蕎麦の魅力
 この『そば大学』は、今年で5回目の開催となる。これまで講師として招かれたのは安部孝雄、鵜飼良平、小川宣雄、真野竜彦氏と、いずれ劣らぬ名人上手たちである。
 会場の『蕎道館』(きょうどうかん)に入ると、平日にも関わらず、大勢の蕎麦打ちファンが集まっていた。高橋名人が実際に蕎麦を打って見せ、次に会員たちが打つ蕎麦に助言や指導をする。ピリピリした雰囲気では、と緊張して中に入ったが、和気あいあいとしていて見ていても楽しい。昼には『達磨』のもり蕎麦を賞味することができた。粉も水も店のものを持ち込んで打った蕎麦は少し青みがかった二八蕎麦で、かすかに甘さを感じさせる。
『蕎道館』でのそば打ちの指導風景
 「玄蕎麦は丸抜きをとって石臼で挽く。まんなかのでんぷん質も入っていて、甘味もある。細いがしっかりした歯ざわりの蕎麦を目指しています」と高橋名人は午後の講演で話していたが、そのためにも自家製粉は重要なのだ。その上で十割蕎麦ではなく、二八にこだわる。「江戸の蕎麦の伝統は二八であり、そうしないと都会的な“すする”蕎麦にならない」、というお話しであった。なるほどと思う。江戸の噺家が演じる蕎麦食いの粋な様子は確かに二八に違いない。上品で清冽(せいれつ)な旨さは、何枚でも食べたくなる。「山都に来て“十割蕎麦”の看板を見ると、負けず嫌いの血が騒ぐ」と笑う。
 名人は毎朝4時頃には起きて仕事を始める暮らしを続けてきた。健康でないと店も維持できない。「病気にならないように気をつけるんです。今年ももうインフルエンザの予防接種は受けた」という。
 講演の最後には質疑応答が行われたが、会場からは使う水の硬度や蕎麦粉の保管法といった専門的な質問が出た。参加している方々も相当な蕎麦打ちなのだろう。
 各地の蕎麦ブームの背景に、減反という農政の現実があるのも忘れるわけにはいかないが、現代は蕎麦打ちブームである。趣味・道楽が高じた人たちや定年後の第二の人生に蕎麦に魅了されて蕎麦を打つ。手間ひまを厭わないから、いつの間にか美味しい蕎麦を打つようになる。蕎麦を巡る世界は今、とても賑やかだ。
水蕎麦という風土の味を農家蕎麦屋で賞味する
 さて、山都の蕎麦は山間の暮らしの中に受け継がれてきた伝統の蕎麦である。四十数年前から、水蕎麦の旨さが評判になり、全国的に有名になった。蕎麦好きにとっては、一度は食してみたい幻の蕎麦である。
 渓流に沿って細い山道が続く。山都町の中心部からもう随分と山奥に入ってきたはずだ。この先に本当に蕎麦を食べさせる店があるのだろうか。車を走らせながら、そんな不安が頭をもたげ始める頃、不意に視界が開け、“手打ちそば”ののぼり旗が目に止まる。山間に身を寄せ合うような小集落である。この宮古地区にある30軒ほどの農家のうち、今では十数件が農家蕎麦屋を営んでいる。
 その中の1軒、『いしいのそば』は集落の入口にある。昔ながらの農家をそのまま利用した広々とした座敷にテーブルが並ぶ。座布団に胡座をかいて座ると、よくもここまで蕎麦を食いに来たものだ、と我ながら思う。蕎麦会席を注文する。待ちきれない思いでいると、ようやくコンニャクや川魚、山菜や天麩羅、身欠き鰊の山椒漬けなどの郷土料理が、蕎麦と一緒に膳に並んだ。これが宮古の農家蕎麦屋のメニューの基本だ。地のもの、旬のもので彩られた素朴なご馳走は大変な量である。しかしここまで来たからには、やはり蕎麦を目当てにしたい。飯豊山系の清冽な湧水に打ち立ての蕎麦が盛られている。水だけで食べても旨いから水蕎麦という。自家栽培を基本とし、更級に近い独特の白い細打ちの蕎麦で、つなぎを使わない十割蕎麦だ。小麦粉が高価だったためだというが、逆に蕎麦本来の風味が生きている。
 店主の石井民衛さんは83歳。今でも現役で蕎麦を打つ。醤油も手づくりで、味噌も仕込む。天麩羅を揚げる油も自家製のものだという。腹の底から健康になりそうなスローフードのお手本のようだ。塩で食べる塩蕎麦も旨い。古くから伝わる大根汁で食べると辛味が強くて蕎麦の持つ味わいが消えてしまうから、と考えた食べ方だという。息子さんが営む越谷店(埼玉県)でも出している人気の蕎麦だ。もちろん通常の蕎麦つゆでも旨い。
『いしいのそば』の水蕎麦と店の様子。蕎麦打ちをしているのは店主の石井民衛さん。これから雪深い冬を迎えるが、昨今は車で訪れる人も多い。
(予約制だが、蕎麦があれば、飛び込みでも受け入れてくれる)
 どうやら山都の人たちは本当に蕎麦が好きなのだ。厳しい自然の中で蕎麦を食さざるを得なかった歴史は一方にあるにしても、素朴でありながら奥深い蕎麦の文化がここにはしっかりと根付いている。
 各地の蕎麦処では、休日ともなれば蕎麦を目当てにする首都圏ナンバーの車を頻繁に見かけるようになった。蕎麦の魅力はその土地、その店に足を運んでみなければ分からない。山都の蕎麦ならばやはり山都へ、苦労して出向いた者だけが格別の滋味を味わえる。蕎麦を育んできた風土や自然を感じながら食する蕎麦は、やはりひと味違うようだ。
  
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