那須野を越えて白河の関へ 奥の細道への遥かな旅。其のニ
 
かさねとは八重撫子の名なるべし
 今回は日光を発ってから白河の関に至るまでの旅を追う。芭蕉と曽良にとっては初夏の旅であった。時折馬を使うほかはひたすら徒歩だったその行程を、車を使って1日で回る。季節も出で立ちも2人とは違うが、『奥の細道』という世界を通して見ると、訪れる場所や風景が少し普段とは違って見えてくる。ゆかりの地を訪ねてみると、カメラバッグを背負い、あるいはスケッチブックを片手にそぞろ歩く人の姿も多い。

写真右上/清流、那珂川。夏のシーズンには観光やな場が築かれ、名物の鮎に舌鼓を打つ観光客で賑わう。芭蕉ゆかりの町、黒羽には資料館「芭蕉の館」もある。
写真中上/雲巌寺。執権、北条時宗建立。朱に塗られた反り橋を渡り、石段を登って山門をくぐると、静かな境内に仏殿や鐘楼が厳かに並ぶ。越前・永平寺などとともに禅宗四大道場のひとつ。観光化されていない寺である。
写真右下/那須湯本の賽の河原にある殺生石。
写真中下/那須温泉の本湯、鹿の湯。立ち寄りの共同浴場で、写真にある入口から左に“渡り廊下”があり、川をはさんで浴場がある。硫黄を豊富に含む白濁酸性泉で、奈良時代の記録にも残る名湯。古来、湯治場として利用されていた。
写真上/芦野の名所、遊行柳。水田の中にポツンとある大きな柳の姿が美しく印象的だ。近くに休憩所を備えた駐車場がある。
那須野・黒羽・雲巌寺
 『奥の細道』は元禄2年(1689)5月16日(旧暦3月27日)に深川を発ち、大垣(福井県)に到着するまで、全行程にして2400キロ、160日間に及ぶ旅であった。芭蕉46歳。この旅は、その後5年をかけて400字詰め原稿用紙で30枚ほどの作品として凝集される。
 旅立ち前に「能因法師・西行上人の踵(きびす)の痛みも思い知らん」と記し、その幻を追いかける旅を、時として自分自身が夢幻能を舞うワキ僧であるかのように進めていく。
 5月20日、日光を後にした芭蕉と曽良の2人は、黒羽へ向かった。
 道中は雷雨となり日も暮れかかる。一夜を「玉入」という土地の名主に宿を借り、翌朝再び野中の道を進む。那須野越えは旅の難所だ。しばらくすると野飼いの馬が見えてくる。草を刈る男に貸してくれるよう懇願し、同情した男から馬を借りる。芭蕉がその馬にまたがって進み始めると、幼な子が2人、後を追ってくる。名を問えば、小さな女の子が『かさね』と言う。
 その名の風流な優美さには相当に感心したらしい。粗野な農夫のように思っていたが、情もあり、教養もあることに驚く。
 
かさねとは八重撫子の名なるべし
 
 『細道』の中では珍しく人の情愛を感じさせ、とりわけ印象的な句だ。曽良の句として記されているが、実際には芭蕉のものらしい。旅の後、芭蕉は知人の子に『かさね』の名を授けている。
 那須野を抜け、その日のうちに2人は黒羽に到着した。那須黒羽2万石の領主大関氏の家老、浄法寺図書(桃雪)とその弟、鹿子畑善太郎(翠桃)のもとに身を寄せる。2人はともに俳諧好きの風流人だ。滞在は6月3日まで14日間に及び、旅中最も長い滞在となる。この間、芭蕉は那須与一が屋島の合戦の折、平家方がかざした扇の的を射ようとしたとき「我国氏神正八幡」と祈願した八幡宮(那須神社)や修験光明寺の行者堂など名所旧蹟をめぐり歩き、地元の知識人たちと連句を巻いた。
 また、芭蕉が深川でしきりに参禅に赴き、影響を受けたという仏頂禅師が修業時代にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌を岩に書き付けたという雲巌寺を訪れている。芭蕉は禅師本人からこの話を聞いていたらしい。黒羽の中心地から車で約20分ほどの山中にある臨済宗の名刹だ。
 
啄木鳥(きつつき)も庵はやぶらず夏木立
 
 黒羽は那珂川に沿って古くから発展してきた城下町である。実際に訪れてみると、八溝山系に抱かれた小都市で、独特の情趣がある。周辺にも歴史を感じさせる町が連なり、魅力的な文化圏を形づくっている。那珂川は関東一の清流であり、初夏、鮎漁の解禁とともにやな場が各地で賑わいを見せる。川風を受けながら食するとれたての鮎料理はつとに人気が高い。
 さて、当時の黒羽藩は交通の要衝であった。作家の嵐山光三郎氏は黒羽長期滞在の理由を、「当時、日光工事請負で、伊達藩と日光奉行の対立があり、曽良にそれを調べる任が与えられ」「伊達薄の動向をさぐるには黒羽が一番よい」(『芭蕉の誘惑』)からだと説明する。確かに旅にあたって、曽良は幕府と交渉し、路銀を調達したらしい。「仙台までは幕府がスポンサーの旅」なのである。
殺生石
 6月3日、黒羽を発ち、那須湯本の殺生石に向かう。『曽良随行日記』によれば、馬に乗って高久へと向かい、大地主で廻米問屋でもあった高久家に泊まる。現在も続く旧家で、ここに芭蕉は雨のため足止めされている。5日になって雨も止み、高久家を後にした2人は午後2時過ぎ頃湯本に到着した。
 那須岳に向かう道を車で上っていくと、那須湯本の温泉街はすぐである。暖冬の影響で今年は雪が少ないが、標高が上がるにつれて、道筋には雪が溶けずに残っているのが目につくようになる。
 那須高原は今や人気のリゾート地だ。御用邸があることでも有名だが、あちこちに別荘が建ち、牧場が広がる。通りには酒落たレストランや喫茶店、ペンションや美術館などが立ち並ぶ。東京からも近いため、ここに暮らして新幹線通勤をする人もいる。
 芭蕉と曽良はまず那須温泉神社に参詣し、その後、少し離れた『賽の河原』を訪れ、むき出しの山肌に『殺生石』を見る。その様子を「地面が見えないほど蜂や蝶の死体が折り重なっていた」と芭蕉は記している。原因は硫化水素だろうか。
 
 殺生石は温泉の出る山陰にあり。
 石の毒気いまだほろびず。
 蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
 
 この殺生石には伝説があり、その説話は謡曲(能の謡の部分)にも描かれている。
 昔、玉藻ノ前と呼ばれる美女がいて、やがて鳥羽院の寵妃となった。ところが帝は病に臥せるようになる。占いをすると玉藻ノ前は化生の者であることが分かる。正体を見破られた玉藻ノ前は金毛九尾の狐の姿で逃げ出してこの地で射殺され、その魂が殺生石になった。石は毒を吐き、高僧たちが鎮めようと試みるも、その毒は未だ失われていない…。
 今でも硫黄の匂いはきつい。実際に殺生石を目の当たりにして、芭蕉らも相当に背筋を寒くしたことだろう。このただならぬ異界の気配は次に訪れる遊行柳への伏線ともなる。読者を巧みに誘い、旅は演出されるのだ。
 芭蕉が宿した温泉宿は今はない。折角だからひと風呂浴びようと本湯の『鹿の湯』を訪ねてみた。殺生石がある賽の河原から坂道を少し下ると、風情のある木造の建物がある。酸性泉の熱さは強烈で、入浴の手順を示す注意書きがある。それによるとまず頭に少しずつかぶり湯をしてから湯に入る。広々とした湯船にゆっくりと体を沈めると、湯煙の向こうに芭蕉の“言霊”が立ち上るような気がする。
謡曲「殺生石」
西那須湯本に伝わる「殺生石」、
金毛九尾の狐の説話をもとにしたもので、
夢幻能のひとつ。(銕仙会公演より)
遊行柳
 この那須湯本に2泊した2人は、次に西行(1118〜1190)ゆかりの地、『遊行柳』へと歩を進める。「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(西行)で知られる芦野の名所である。今もあたりには水田が広がり、遠目にも大きな柳の木が見える。これが有名な遊行柳だ。
 
 この柳の木にまつわる説話は謡曲として有名になった。一遍上人(遊行上人、浄土系「時宗」の開祖。1239〜1289)が西行の歌が詠まれた場所を探していると、柳の霊が現れてその場所に道案内をしてくれた。上人が念仏を唱えると、柳の霊は成仏することができた、という。ここで芭蕉は感激の思いを記す。
 
今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
 
田一枚植て立去る柳かな
 
 しかし、この句は分かりにくい。「早乙女たちが田を一枚植え終わるのを放心のままに見つめていた私は、ふと我に返り、遊行柳の地をを去った」と解釈すべきか、あるいは、「柳の精が田を一枚植えるのを幻視した」と理解すべきか。解釈は分かれているようだが、殺生石から繋がる異界を底流に、白昼夢を見るような後者のほうが自然な流れのような気もする。

水田に映える「遊行柳」

『奥の細道』は、全体の構成をかなり意識していたのだろう。さながら芭蕉自身がワキ僧を演じるように筆を運び、『旅』に起伏と奥行きをもたらしている。「ワキ僧」とは、能の主人公「シテ」が霊魂などの場合に「ワキ」としてそれと関わる僧のこと。こうした能は夢幻能とも呼ばれる。『殺生石』も『遊行柳』(写真左)もこれにあたる。
芭蕉は伊賀上野の出身であり、能楽の祖、観阿弥や世阿弥と同じ文化的な空気に触れて育った。能楽の幽玄が芭蕉と通底しているというのは理解しやすい。
俳文学者・尾形仂(おがた・つとむ)氏は、「芭蕉の旅中吟−それは自己の旅姿を夢幻劇中の登場人物に擬した幻想の旅路における、古人の詩魂との邂逅の記念だった」と端的に記している。
(写真は「銕仙会」公演より)
白河の関
 さて、いよいよ関越えである。遊行柳から白河の関までは車で20分ほどの道のりである。古来有名な歌枕の地であり、その先にはこの世の異界とも思える未知の地平が広がる。「白川の関にかかりて旅心定まりぬ」と芭蕉は記している。
 
卯の花をかざしに関の晴れ着かな(曽良)
 
 曽良の句である。関越えにあたり装束を正す故事を踏まえ、乞食姿のような2人だが、せめて卯の花をかんざしのように飾るのだ。芭蕉の関越えの心境は、次に訪れる須賀川の地で詠まれることになる。
 
風流の初やおくの田植うた
 季語で言えば「行く春」から始まる芭蕉の旅は「夏木立」を経て、「田植え歌」に至る。能因法師(平安中期の歌人)の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と遠く響きあいながら、芭蕉は“みちのく”に足を踏み入れていく。
古来歌枕の地として知られる「白河の関」跡

写真協力◎銕仙会公(てっせんかい)、那須町役場観光商工課
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