食と文化の物語り 蕎麦三昧 そば道楽事始め−その2
 
常陸秋そば(ひたちあきそば)と里山の魅力を探る旅
そばの花咲く奥久慈を訪ねて
 
 著名なひとりのそば職人が東京の名店を閉じ、故郷で里山の再生に取り組んでいるという。そばの可憐な花が咲く原風景を求め、失われゆく農法を取り戻す試みだ。壮大な夢は地元農家の協力を得て、そばや小麦、お茶の栽培に新しい光をもたらした。徹底した本物の食へのこだわりが蘇らせようとする里山の文化。そばの魅力を通して、今回はそんな思いに触れてみたい。
 
里山の再生を願う小川氏の実践は、地元農家や首都圏の志を同じくするそば店の協力と理解にも支えられている。写真は、
上段左: 旧水府村のそば畑。急傾斜地の畑も多い。
上段中: 焼き畑の作業風景。そもそもはお年寄りばかりで荒れたまま放置されていた畑を再生させたいと始めた。梅雨明けの時期に行われる。
上段右: 慈久庵外観。小川氏がデザインし、屋根は北上川のヨシで葺いた。建材もいずれ土に帰ることを意識して、自然素材を基本としている。
下段左・中: そば好き垂涎の的、慈久庵のそばとそば掻き。写真でも“ホシ”と呼ばれる粗い粒が分かる。
下段右: 手づくりのデザートは季節によって変わる。写真は完熟した柿のシャーベット。慈久庵では、野菜も地元産の無農薬有機栽培にこだわる。
 蕎麦三昧、そば道楽事始めと銘打ったこの企画も今回で2回目を迎える。意外なところにそば好きというのは潜んでいるもので、そばの話題は評判がいいのだ。
 そんなそばの世界には、全国に名店と呼ばれる店があり、名人と慕われるそば職人がいる。そば好きにとっては憧れの存在だが、今回はそんな著名なそば打ち名人の一人、小川宣夫氏のもとを訪ねてみることにした。
 車で向かった奥久慈は有名なそばの産地である。寒暖の差が激しく、古くからそば栽培が盛んな土地柄だった。30年近く前に在来品種から優れた品種をかけ合わせ、常陸秋そばというブランドが確立された。小川氏はその中心産地のひとつ、旧水府村の出身である。
 10月初旬の山里には、ところどころにまだ白いそばの花が残っていた。両側に山が迫る街道沿いに、手打ちそばの看板が目につき始める。渓谷に作られた竜神大吊橋の標識を目印に右折し、坂道を上る。すぐに『慈久庵』は見つかった。山里の風景に調和した見事な茅葺きの屋根と、南仏伝統の建物と見紛う曲り屋の外観は美しく重厚で、思わずうなる。

店内から見える里山の風景
伝説のそばを味わう
 小川氏はもともと東京は阿佐谷に『慈久庵』という店を構えていた。食のエッセイスト、宮下裕史氏はその著作『そば読本』で、次のように紹介する。「このそばは、素朴をテーマとした凡百のそばよりはるかに素朴であり、洗練をテーマとした凡百のそばよりはるかに洗練されている。ちょいとすごみのあるそばである」。そんなそば通が認めた名店をたたみ、小川氏は6年前にふるさと水府に店を建て、移住したのだ。
 「ついでながら、サービスにもちょいとすごみがある。時間に余裕をもって、心して出かけられたい」と結ばれた阿佐谷店の紹介記事の一節が一瞬頭をよぎり、ピンと背筋が伸びる。挨拶もそこそこに、料理を待つことにした。
 次第に期待感が高まるなか、料理が運ばれてくる。わさびの茎の一皿と、蒟蒻(コンニャク)の刺身を食べ、そば掻きに箸を付けてみた。この店のふっくらとしたそば掻きはつとに有名で、慈久庵以外では味わえない究極のそば掻きだという。噂通りお湯に浮かべて出されるものとは違う。皿に盛られたそば掻きはやわらかく、つきたての餅のような感触である。そばの粗い粒々が旨さを引き立てる。玄蕎麦を石臼で挽く段階から、そば粉に対する考え方がまず違うのだ。
 せいろに盛られた細打ちのそばも、透明感のあるつややかな緑の中に、“ホシ”と呼ばれる白や黒の粗いツブが混ざっている。玄そばの芯の白、緑、外皮の黒を意識的に活かして粗く挽いたそばである。香りも豊かで、その清冽な旨さは言うまでもない。
 それにしても、これほど真剣にそばをすするのも滅多にない経験だ。「お茶は出しません」。そんな注意書きが堂々と掲げられた店である。店が客を選ぶ名店というのも噂には聞くが、『慈久庵』はそんな店のひとつなのだろうか。けれども、1日に打てるそばの量には限りがあるわけだから、本気でそばを食いに来る客を優先したい、という店があっても不思議ではない。慈久庵の中には、どこかそんな真剣勝負の緊張感があって楽しい。
 店内の静謐に心地よさを感じながら、ふと窓外に目をやると、美しい里山が借景として見える。これはまるで、そばの出自の正しさを示しているかのようではないか。茅葺きの美しい外観と手塗りの土壁、里山の自然と清冽な水、そして自家栽培・自家製粉の焼き畑そば。そばを食しながら、実は水府の水や自然と直に向き合っているようにも思えてくる。
 最後に出されたのは、何と完熟した柿をそのままシャーベットにしたデザートである。素材の柿の旨みが凝縮した滋味と洗練は見事で、あらためて小川氏の理想を垣間見たような気がした。
明治期に建てられた銀行の建物を利用した「鯨荘塩町館」はうどん専門として小川氏が開いた店。
「久慈庵」から車で20分ほどの常陸太田市の街中にある。
挽き方にもこだわった小麦粉は、これまでの機械製粉とは比べものにならない味だ。
NHK「食菜浪漫」では三味線奏者・上妻宏光さんが手打ちうどんの技を小川氏に学んでいる。
写真は店の外観と人気の釜揚げうどん。
手打ちしたうどんを干しているのは地元出身の弟子、岩間卓哉さん。
うどんは干すことで熟成を増す。蒟蒻(コンニャク)の刺身は郷土伝統の味。
写真はお茶の手揉み作業風景。奥久慈はお茶栽培の北限地でもあり、小川氏はその生産を通して、
納得できるお茶作りを試みている。いづれもそばを極めた凄腕の職人だからこそなせる技だ。
そばの花咲く里山の畑を守りたい
 一通り食事を終えてから小川氏にお話を伺うことができた。
 「自分はそば職人になるのが目的でそばの世界に入ったわけではないんだ。本当は畑ですよ。そばの白い花が可憐に咲く美しい故郷の里山を守りたいと思ったんです」
 小川氏は78年、長野に山小屋を建てて移り住んだ頃にそばと出合う。もともと水府の出身であるから、そばは子どもの頃から暮らしの中にあったわけだが、長野の美しいそば畑に触れて、ふるさとの里山の風景とつながる生き方をしたいと思った。日本の山村は過疎化が進み、減反政策の中で田んぼや畑が荒れ始めていた。そば畑も同様である。水府では古くから、煙草とそば、麦の連作を組み合わせた農法を続けてきたが、そのうちのどれかが崩れてしまえば、伝統農法は成り立たなくなる。農の営みが断たれてしまえば、美しい里山の風景も文化も失われてしまうだろう。
 90年に阿佐谷の店を出すまで、小川氏はそんな思いを胸にそば打ちの修業を続けた。だから、阿佐谷の慈久庵では、当然地元水府産の玄蕎麦を使った。ふるさと水府に店を移したことは、ごく自然に納得できる。
 水府に戻り、小川氏は在来農法を採り入れて、最高のそばづくりを求めた。地元の農家に協力を求め、“手刈り天日干し”を実践してもらうのだ。茎を手で刈り取り、穂田掛けにして天日で干す。昔はどこの農家でも行われていたものだが、やはりそばの味わいは変わる。こうして収穫された玄蕎麦を、小川氏はできるだけ高値で買い取るように工夫した。耕作放棄され、荒れたままの畑は、かつて村で行われていた“焼き畑”として再生させた。アクのない、とりわけおいしい“焼き畑そば”が生まれることになった。
特別にお願いをして、そば茹での作業を見せて頂いた。
沸騰した大量のお湯の中でそばが踊る。
ざるにそばを掬い上げ、一気に冷水で洗う。
当然だが、動きに無駄はない。
そばが清冽な水の恵みでもあることに、
あらためて気づかされる作業だ。
小麦粉を極めたうどんの誕生
 さて、古来の連作になぞらえた二毛作のそば畑は、同時に見事な小麦も生み出すことになる。小川氏はそれまで日本中どこでも栽培されていなかった小麦“きぬの波”の作付けを農家に依頼し、そばと同じこだわりで“手刈り天日干し”を徹底してもらった。こうして収穫された玄麦を、そばを極めた職人ならではの感性で、小川氏は粗く石臼挽きにした。地物の小麦の旨さをまるごと凝縮させた全粒紛の小麦粉は、“浮き打ち”と呼ばれる手法で究極の“うどん”として結実する。政府が小麦粉を統制していた数年前までは考えられなかったような、深い味わいが生まれた。
 地産地消という単純な言葉だけでは語れない。強いて言えば、南仏に伝わるスローライフの実践にも、この生き方は通じている。古くから山里に伝わる暮らしを見つめ直し、大量生産や機械化で失われた農や食のあり方を問う。どうやら小川氏が取り組んでいるのは、日本の里山のグランド・デザインとも言えるものかもしれない。
 折しも新そばが出回る時節である。香り高い新そばを一番の美味とするのは分かりやすいが、水府では真冬の2月頃がそば祭りの本番だ。そばは年を越した厳寒期に甘みを増し、最も美味しくなる、と小川氏は言う。さらに、新そばの直前の時期まで熟成させた玄蕎麦の味わいの深さを知る人は少ない、とも語る。鮨の世界でも新米はあえて寝かせてから使うことでしゃりに旨みが出るという。そばにも日本人の“初好み”が影響しているのだろうか。
 これから迎える新そばの季節。各地のそば祭りでそばを楽しながら、小川氏の言葉を思い出してみたい。
奥久慈について −久慈川とその周辺情報−
 久慈川は福島と茨城の県境にまたがる八溝山系を水源とし、太平洋に注ぐ。鮎釣りでも有名な清流である。変化に富んだ表情は魅力的で、四季折々に美しい姿をまとう。特に袋田の滝(写真左・大子町)は観光の名所。
 奥久慈と呼ばれのは、その流域の広い地域で、コンニャクやシャモの産地としても有名だ。福島県矢祭町や、茨城県大子町、さらに常陸太田市として合併した金砂郷町、水府村、里美村、旧常陸太田市などが含まれる。
 首都圏などから田舎暮らしを始めようと移住を希望する人たちの受入れにも積極的で、古民家で田舎暮らしが体験できる宿泊施設などもある。
 旧水府村は県道33号線沿いにあり、旧金砂郷町とともに常陸秋そばの産地として知られてきた。周辺地域には天然温泉もあり、竜神川にかかる竜神大吊橋(写真中)は歩行者専用としては本州一の長さ。秋の紅葉シーズンはもとより、四季を通じてその絶景は見事。
小川宣夫(おがわ・のぶお)氏。
1947年生まれ。90年に東京・阿佐谷で故郷「水府」の玄蕎麦を使用した自家製粉の手打ちそば店『慈久庵』を開く。01年に故郷に戻り、この地域に伝わる在来農法を復興。焼き畑そばや小麦栽培などを通して、里山の再生にも取り組む。最近では、週刊文春『職人で選ぶ45歳からのレストラン』(9月20日号)でも取り上げられた。
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