風流の初やおくの田植うた
 
白河の関から須賀川へ
奥の細道への遙かな旅。其の三
 
 古来、歌枕の地として有名な白河の関。歌枕とは、言わば文学的な幻想の場所で、「白河の関」は最果ての詩情を喚起した。ここに都人らは空想の翼を広げ、さまざまな思いを込めて和歌を詠んだ。芭蕉は実際の関越えにあたり、西行や能因法師らの歌に四季それぞれの情景を思い、感慨を深める。初夏に訪れた芭蕉一行と季節は違っているが、冬もまたよし。関を越えてみちのくに足を踏み入れ、芭蕉が耳にした田植え歌を思いながら、須賀川を訪ね、芭蕉ゆかりの地を訪ねてみることにした。
 
写真右上: 十念寺。芭蕉が須賀川滞在中に参拝した浄土宗の寺。江戸後期の女流俳人、市原多代女(須賀川生)が建立した『田植唄』の句碑がある。
写真中上: 可伸庵跡。栗は西の木と書くことから、西方浄土へも通じる。その花のつつましさのような可伸の暮らしぶりに芭蕉は共感した。現在の栗の木は、当時から4代目とも言われる。
写真中下: 須賀川冬の風物詩、松明あかし。日本三大火祭りの一つ。30本もの松明で、会場の五老山は全山火の海となる。
写真左上: 神炊館(おたきや)神社。芭蕉はこの神社にも参拝している。別名諏訪神社とも言う。巨大な石灯籠が印象的だ。
写真左中: 須賀川牡丹園。230年の歴史を持つ須賀川の名勝。
写真左下: 冬、牡丹園で開かれる牡丹焚火。「かおり風景百選」にも選ばれている。天寿を全うした牡丹の枯木を供養するもので、ほのかなかおりが漂う。俳句歳時記の季語でもあり、全国から多くの俳人が集う。
白河の関を越える
 車を走らせ、奥州街道を栃木県から福島県に入る。県境の境明神を過ぎてから、東に街道をはずれ、ひと山越えると古来の歌枕の地、白河の関である。元禄2年(1689)6月9日(旧暦4月22日)、芭蕉と曽良はこの関を越えた。初夏のことである。

 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとヾむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ 。

卯の花をかざしに関の晴着かな(曽良)


 白河の関にまつわる古来のさまざまな歌や故事を彷彿とさせながらも、『奥の細道』で示される句は曽良の作のみである。もっとも、当時は関の場所も定かではなく、芭蕉と曽良は地元の人が教えてくれた場所をいくつか訪ね歩いたらしい。
 この関は、7世紀頃の史料に登場する。小高い丘のような場所で、鳥居をくぐり石段を上ると、古びた社が祀られている。その奥は、鬱蒼と樹木が生い茂る薄暗い空間で、空壕(からぼり)の跡が不思議な静寂をたたえている。ここは、大和朝廷が蝦夷(えぞ)の南下を防ぐために築いた砦であり、かつては柵や濠が築かれていたらしい。
白河の関跡
県道坂本・白河線沿いに「白河の関」跡はある。
芭蕉が訪ねた頃には、その場所はよく分からなくなっていたらしい。その後、寛政の改革で有名な白河藩主、松平定信によって、この場所が特定された。鬱蒼と茂る古木が小高い山を覆っている。
須賀川等躬宅へ
 さて、白河の関を越えた芭蕉と曽良は、阿武隈川を越え、平地となった奥州路を歩き、途中で矢吹に一泊、影沼を訪ねている。影沼とは蜃気楼が立つ沼として知られていた名所だったらしいが、曇天のため、その様子を見ることはできなかった。同日、2人は須賀川宿に入り、駅長を勤める知人、相楽等躬(さがらとうきゅう)宅に到着する。

とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。」

風流の初(はじめ)やおくの田植うた


 芭蕉は等躬に問われ、この句を示し、歌仙を巻く。ここで初めて関越えの心境がうたわれることに触れて、旧大信村(現・白河市)出身の芥川賞作家、中山義秀はこう想像する。
 「みちのくの旅愁を句にするのは、陳腐にすぎない。/そこで關の扉をひらき、俳諧の奥路をさぐる意をこめて、『風流の初』とした。亭主の等躬にたいする挨拶句としてばかりでなく、あはせて彼の心意氣をもしめしてゐる。」(『芭蕉庵桃ヨ』より)
 あまりにも有名な白河の関という歌枕の地である。和歌の伝統に憧れながらも、それに対抗し、俳諧に新境地を開拓しようとする芭蕉の決意を、義秀は読みとるのである。関越えの即詠は曽良の作として掲げ、芭蕉は少しずらしたところから『田植唄』を発見してみせたのかもしれない。

 義秀の芭蕉への思いには、もう少し触れておきたい。氏は同じ文章の中で、関越え以後のくだりに注目し、次のように記している。
 「それによつて山あひから平野へでた、奥地の天地の廣さをつたえたかつたのであろう。/廣いといつても那須の曠野とは、またがらりとかはつた光景で、田野はよく耕され、到るところで田植ゑがおこなはれてゐる。(中略)蓑笠姿の素朴な身なりと濁みた歌聲、太古の民さながらの賑かな田園風景である。/こゝにはもう天地寂寥といつた気配はなく、沃野がはてしなくつづき、人里は樂しげで明るい。(中略)白河の關をこえ、初めて目にするみちのくの世界を前にして、芭蕉は心がはずんだ。」
 実は、芭蕉に触れたこの著作は義秀、未完の絶筆である。ふるさとを愛した義秀は、食道がんの手術を受け、がんと戦いながら、その後の3年間を芭蕉に費やしたのだ。故郷への思いを込めた、こうした一文を読むと、特別な感慨が湧く。
 病の持つ意味は時代とともに変わる。食道がんは、今では早期に発見し治療すれば、完治すると言われているのだ。文学を語る上でも、作家が生きた時代の医療事情を知ることは重要だ。死生観は作品世界のトーンをも左右するだろう。がんが不治の病としてのイメージが強かった時代、“最後の文士”と称えられた作家は死を見据えながら、最後の時間を芭蕉とともに生きたのである。
須賀川という俳句の街を訪ねて
 須賀川は阿武隈川とその支流、釈迦堂川に沿って古くから宿場町として栄えた歴史の深い街だ。芭蕉ゆかりの地でもあり、俳句はつとに盛んだ。地元の俳句結社『桔槹(きっこう)吟社』は80年以上の歴史を持つという。俳句は須賀川の文化の柱でもある。あちこちに投句ポストが設置され、芭蕉生誕300年には市役所の敷地に芭蕉記念館が建てられた。ここを起点に、市の散策ルートに従って、芭蕉ゆかりの地を歩いてみることにした。

 記念館から東へ、可伸(かしん)庵跡は歩いてすぐの距離にある。ここはやはり欠かせない。当時から4代目という栗の木を見上げ、周辺を散策する。可伸は俳人で号は栗斎。等躬の敷地に庵を結んでいた。隠遁を生きる僧侶のような暮らしぶりに芭蕉は共感を覚え、『軒の栗』の句を詠んだのである。そこからすぐ近くにある軒の栗庭園、等躬宅跡を訪ね、町歩きを楽しみながら十念寺へ向かう。10分ほどの距離だ。江戸後期の女流俳人で、加賀の千代女(ちよじょ)と並び称された市原多代女(たよじょ)は須賀川の人で、この境内に『田植唄』の句碑を建てた。古い樹木に囲まれた境内は、当時からのままに静けさを湛えているかのようだ。そこから古い町並みを抜けて千用寺を経、神炊館(おたきや)神社を訪ねる。さらに二階堂神社から、等躬の菩提寺、長松院を経て、記念館に戻る。ゆっくりと歩いても1時間ほどの行程はウォーキングにもちょうど良い距離だ。
 須賀川での長逗留を、芭蕉はどんな思いで過ごしたのだろう。『奥の細道』では、「4、5日引き止められ」、と記しながら、結果的には7日が経っていた。雨がちの日々が続いたようだが、江戸で俳諧を通して知り合った等躬、隠者のような可伸や、地元の連衆(俳人たち)と歌仙を巻き、嬉しいもてなしを受けながら、芭蕉と曽良は名所巡りを楽しんだことだろう。
 須賀川を発つにあたり、芭蕉は石河滝(現・乙字が滝)を訪ねることを勧められ、滝を見てから守山(現・郡山市)に入ることにした。ところが、阿武隈川の水量が増し、足止めされた芭蕉はさらに1泊し、(こうして須賀川滞在は7泊8日となった)、翌日6月11日(旧暦4月29日)に須賀川を発つ。

五月雨の滝降りうづむ水(み)かさ哉(かな)

 曽良の旅日記によれば、水かさが増した川を舟で渡り、対岸に着いてから芭蕉はここを訪れ、この句を詠んだらしい。ちなみに、『奥の細道』にこの句は採られていない。

 さて、芭蕉は可伸庵での歌仙の折り、“そば切り”のふるまいを受けたと記している。一体、どんなそばだったのだろうか。今でも須賀川はそばやうどんといった製麺業が盛んな土地柄だ。地元の美味しいそばをすすりながら、芭蕉に思いを馳せてみるのも楽しい。
写真左: NHKBSの朝の番組「街道てくてく旅」から
プロ卓球選手、小柄な四元奈生美(よつもと・なおみ)さんが日光、奥州街道を踏破した。東京・日本橋を発って11月23日の仙台まで2ヵ月に及ぶ長旅だ。その途次、須賀川ではやはり芭蕉の面影に触れ、芭蕉翁の出で立ちで、『軒の栗庭園』から生中継を行った。傍らには大柄な曽良。現代の芭蕉は何とも愛らしい。(放送は終了しました)
写真右: 石河滝(現・乙字が滝)
中山義秀と芭蕉
 
 『芭蕉庵桃ヨ』は中山義秀、未完の絶筆である。氏は最後の文士と呼ばれた芥川賞作家で、1969年、68歳で他界した。死因は食道がん。一般に飲酒と喫煙との因果関係が指摘されている男性に多いがんだ。読者へ、と題された一筆が『芭蕉庵桃ヨ』巻末にある。それによれば、「食道癌の手術以來、三年間、生に惠まれた事を感謝する。さらにその間、この仕事に専心できた事を感謝する。/病と戰ひながら二十枚、三十枚と書き續けて來たけれど、苦しさの中にも樂しさがあった。今二囘で終はるところであるけれども、それも是非ない。/私としては、未完成に終はつたけれども日本人の美しい情操を傳へるものとして贈りものとするに恥ぢない。
一九六九年七月十五日 口述筆記 娘 日女子」とある。

 旧大信村には、中山義秀記念文学館(TEL:0248-46-3614)が建てられ、中山義秀顕彰会が主催する歴史・時代小説を対象とした『義秀文学賞』も有名。昨年の受賞作『天地人』(火坂雅志・著)は2009年、NHKの大河ドラマ化が決まっている。
須賀川診療所
(一般財団法人脳神経疾患研究所 附属 総合南東北病院 附属)
〒962-0032 福島県須賀川市大袋町206-2 TEL:0248-73-3331
 須賀川市の中心部に位置する須賀川診療所は、南東北グループ最初の診療所として平成6年6月1日に開設されました。現在は脳神経外科・神経内科外来の「診療部門」と、通所リハビリテーション・訪問看護ステーション・居宅介護支援事業所の「介護サービス部門」から構成されています。
 「診療部門」の外来には1.5テスラのMRIが設置され、外来患者の診療や他医療機関からの検査委託にも対応、地域医療に貢献すべくフル稼働しています。
 また、在宅診療も行っており、寝たきりの患者さん・ご家族の皆さんの在宅生活を支えることができるよう精神的なケアも大切にしています。
 
取材・写真協力:白河市教育委員会文化課、中山義秀記念文学館、須賀川市商工観光課
須賀川市芭蕉記念館、NHK福島放送局
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