東北の大河が育むもの
北上川の汽水域を訪ねて
 
 牡蠣をめぐる旅≠ヘ食文化と自然環境の繊細な繋がりを示唆していた。豊饒の海は川によってもたらされ、その上流には豊かな森がなければならない。海の漁師たちが山に樹を植える活動は、奇妙な光景ではなくなり、行政や企業も巻き込んで全国に波及している。時代がエコを志向するなか、川を見つめる視点も様変わりしてきた。とりわけ北上川河口周辺では、広大なヨシ原をめぐる静かな活況がある。上質の鼈甲しじみの産地として知られ、最高のヨシの供給地として知る人ぞ知る汽水域…。そのヨシ原を舞台に茅葺き文化の再生に取り組む一人の職人の姿を通して、食と文化の未来を探ってみたい。
 
  熊谷秋雄(くまがい・あきお)さん/43歳。20代半ば頃、茅葺き建築の文化的価値に気づき、廃業を考えていた父や兄を説得、日本で唯一の茅葺き屋根専門会社を立ち上げた。秋雄さんは常務として実質上会社の牽引役となっている。北上川河口域は人と環境の循環可能な関係を探る上でも注目されており、秋雄さんも大学のセミナーやシンポジウムで講演に招かれることが多い。
 
上川は岩手県北部に端を発し、全長249キロに及ぶ東北一の大河である。下流へと下るにつれて、流域には広大な田園風景が広がり、北上川は海へと至る。  
 この川は、明治から昭和にかけて、水害を防ぐ大工事が行われ、河口付近で新旧二つの流れを持つことになった。完成したのは昭和7年のことである。ちょうど牡鹿半島を挟むような形で、旧来の北上川は南側の石巻湾に注ぎ、新北上川は北側の追波湾に注ぎ込む。古くは追波川と呼ばれていた新北上川の汽水域では最高の鼈甲しじみが採れ、天然のうなぎが育つ。流域には日本一と称される広大なヨシ原が広がり、夏、青々と繁るヨシが、秋になると眩しい黄金色に変わる。その光景はため息が出るほど美しく、人を引き寄せる。  
 「ここで育つヨシは昔から茅屋根やすだれの材料として使われ、最高級のヨシとして知られてきました。ところが、茅葺きの需要は激減し、すだれも中国産の安いものに取って代わられ、北上川のヨシはかなり荒れた時期があります。上流に大堰ができたことも影響してか、しじみもうなぎも少なくなり、貴重になってきました」  
 そんな話をしてくれたのは、ヨシ原のすぐそばで茅葺き業≠営む熊谷秋雄さんだ。追波川の川沿いに住む人たちは半農半漁の暮らしを営み、同時に川原のヨシを利用して茅葺きの仕事にも携わってきた。  
 「ヨシは毎年人の手で刈りとって手入れしてやらないと自然のバランスが崩れるんです。残ったものは火をかけて焼きます。そうしないと、柳の木などが河川敷にはびこってしまい、荒れていきます。川の水も汚れていき、そこに棲息する生き物たちにも影響してくるらしいんです」  
 北上川河口の美しいヨシ原は野鳥たちの営巣地でもある。汽水域の自然は豊かな食文化を支えてもきた。ヨシ原を守ることは、そうした生態系のバランスを守り、魚貝類を育てることにも繋がっているらしい。  
 「ヨシには水質を浄化する働きもあります。水中の窒素やリンを吸収し、その根から放出される酸素は、有機物の分解作用を活発化させる。北上川を掃除してくれているわけですね」
 
 
 
 
【写真】
左上/ 新北上川(追波川)の河口から10キロ以上に渡って広がる広大なヨシ原。写真は冬。初夏に解禁される特産のしじみ漁に使われる舟があちこちに繁留されている
右上/ 12月から3月にかけて行われるヨシの刈り取り風景。刈り取りにはイタリアで見つけて輸入したヨシ刈り専用の機械も使う
左下/ 棟作りと呼ばれる茅屋根の作業風景
右下/ 青々と繁る夏のヨシ原

 
 
茅葺き文化の再生へ
 人々は暮らしの中で川原を手入れし、質の高いヨシを守ってきた。ところが、茅葺き屋根の需要が減るなかで職人たちは次々に廃業へと追い込まれていく。不用なものとなり、手入れされなくなったヨシ原も次第に荒れていった。時代の趨勢のなかで、父親の茅葺き職人、熊谷貞好さんも一時は見切りをつける覚悟をしたそうだ。  
 ところが、ちょうどその頃、海外青年協力隊に参加し、フィリピンで畜産の指導にあたっていた熊谷家の三男、秋雄さんが帰国する。秋雄さんはルソン島で現地の少数民族の人たちが茅葺きの作業をする姿に触れ、それが日本にも通じる文化であることを痛感していた。秋雄さんは廃業を決めていた父親を説得し、日本でただ一つの茅葺き屋根専門の会社を立ち上げてしまう。平成2年のことだ。
 
国各地の汽水域では開発が進み、良質のヨシは少なくなっていた。時代遅れの産業でもあり、職人たちも高齢化が進んでいた。3Kの代表のような現場からは若者の姿は消え、茅葺きの技術も廃れていく。茅葺きの伝統を守るためには、何よりもビジネスとして成立しなければ持続することは不可能だ。そう考えた秋雄さんは、文化財に着目する。高い技術が試される仕事だが、やり甲斐も大きい。やがて中尊寺や兼六園など、国宝や重要文化財、あるいは貴重な史蹟の茅葺きの仕事を手がけるようになり、いつの間にかその名は全国に知れ渡るようになった。今では大学で芸術や建築を専門に学んだ若者たちが茅葺きの技に惚れ込み、社員として職人の技を磨いている。
 
 
西欧諸国で脚光を浴びる茅葺き建築の魅力
 「ヨシは葦(あし)とも呼ばれますが、屋根に上げると茅(かや)と呼ばれるようになるんです。ですから、茅という植物はありません。もとの材料としてヨシがあるわけです」  
 稲藁や麦藁、あるいはすすきも茅葺きの材料として使われ、屋根に上げると茅と呼ばれるのだという。けれどもやはりヨシとは質が違う。汽水域に育つヨシは海水の混じった水を吸い上げるためか繊維が締まって丈夫に育つ。中は空洞だから屋根材としては水にも強く、30年くらいは持つという。それに比べて稲藁などはどうしても水に弱く、虫もつきやすい。私たちが茅葺き屋根に持つイメージは、どうやらこうしたヨシ以外の材料の印象が強いようだ。   
 茅は古くなれば肥料として畑の土を潤す。自然のサイクルのなかにある環境に優しい素材だ。時代がエコを志向するようになって、西欧諸国ではこうした茅葺き屋根への注目度は高い。ある時、デンマークの国営放送が熊谷さんのもとを訪れたことがある。取材クルーたちの感想に、秋雄さんは驚かされたそうだ。  
 「茅葺きはヨーロッパのものと彼らは考えているのです。面白いもので、私たちはヨーロッパは石造りの建築文化と思いがちですが(笑)」
 
  
 
【写真】
左上/ 欧米の茅葺き屋根建築のの一例
右上/ 有名なリゾート地ジルト(sylt)島の茅葺きのショップ。この島にはエルメスやカルティエ、ルイヴィトン、ブルガリなどのブランド直営店が茅葺き屋根で建てられている(ドイツ)
左下/ 新築の茅葺きによる建売住宅の建築風景(オランダ)
右下/ 現代的なデザインの茅葺き住宅(オランダ)


本ではあまり知られていないことだが、西欧では茅葺き屋根が大きなブームとなっているらしい。  
 「オランダでは、年間3000棟もの茅葺きの新築住宅が建てられていて、ドイツのジルト島では有名なレストランや、ブランドショップが美しい茅葺きの屋根をまとい、独特の魅力的な景観を生み出しています。自然志向の強い西欧諸国では、茅葺き屋根のステータスは日本とは比べようもないほどに高いのです」  
 その市場規模は数百億円にも及ぶという。日本では建築基準法22条の縛りもあって、茅葺きの修復はできても新築するのは難しい。何という違いだろう。秋雄さんはそうした諸外国の住宅事情を知るため、これまでに何度もヨーロッパを訪れた。トルコやルーマニアのヨシの刈り取りの様子や、いくつもの国境を越える運搬、そしてオランダやドイツ、ポーランドなどの茅葺き建築の現場をつぶさに見て回った。  
 「伝統的な茅葺きのやり方も違っていて面白いのですが、新しい技術が生まれてきているのも刺激的です。茅葺きの弱点とも思える防火対策も進んでいて、耐火性のボードを板張りした上に茅を葺くんです。道具も機械化されて、日本の三分の一の値段で屋根が仕上がる。こうした技術も日本に紹介していきたいと、私たちは考えています」  精力的な秋雄さんだが、今とても気がかりことがある。中国産のヨシのことだ。どうやら中国からヨーロッパへ向けてヨシの輸出が始まるらしいのだが、その価格は日本の二分の一である。それが今後の茅葺き文化にどのような影響を与えることになるか。近いうちに秋雄さんは中国のヨシ原を視察に行く予定だという。
 
  
【写真】 熊谷産業が手がけてきたきたのは国宝や重要文化財ばかりではなく、店舗や個人住宅も数多い。
左/ 神服織機殿神社(三重県・伊勢神宮)
中央/ 旧原家住宅(神奈川県横浜市)
右/ 10月号で紹介した蕎麦店・慈久庵。偶然だが熊谷秋雄さんが藁葺きを手がけたという(茨城県水府村)
 
 
北上川河口から見えてくるもの
 さて、北上川のもう一つの河口、旧北上川の汽水域についても触れておきたい。宮城産と呼ばれる牡蠣の種はこの川が流れ込み、淡水が海水と混じりあう石巻湾の汽水域でしか採れないというのだ。海流や水温、地形の関係などもあるらしいが、牡蠣にとって北上川はなくてはならない川なのである。3月号で取材に訪れた気仙沼湾北部の唐桑で牡蠣養殖に取り組む畠山重篤さんの言葉を借りれば、「『森は海の恋人』だが、牡蠣養殖にとって北上川はまさに『本妻』」ということになる。  
 それにしても、北上川河口域から教えられるのは、世界へと繋がるスケールの大きさだ。牡蠣養殖も、ヨシを使った茅葺きも、それぞれの発想は悠々と国境を越え、時代の先端を走っていく。その姿は刺激的で、実に興味深いではないか。  
 
北上川河口の汽水域はさまざまな立場から関心を集めている。取材当日は北海道大学大学院・環境社会学の調査チームがフィールドワークに訪れ、秋雄さんの父、熊谷貞好さんを囲んで和やかに懇談していた。
 
材の帰り道、北上川を遡り、登米(とよま)の街を訪ねた。北上川の天然うなぎを供するという名店の味を確かめてみたくなったからだが、天然ものは7月頃までお預けである。鼈甲しじみも6月の解禁を待たなければならない。  
 肉厚のうなぎを頬ばりながら、夏、青々と繁るヨシ原を思った。洞爺湖サミットではCO2削減が大きなテーマとして論じられるが、牡蠣やヨシ、しじみやうなぎを育てるメカニズムの先に、かすかだが未来への道は見えてくるのかもしれない。汽水域をめぐる旅は、食欲とともにさまざまな関心を刺激する。
 
 
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