ふるさとを旅する [福島県二本松市(旧安達町)]
 
智恵子が暮らした生家
 
 
 「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」。高村光太郎の詩『智恵子抄』に収められた『樹下の二人』のあまりにも有名な一節。その舞台は智恵子の生家の裏にある鞍石山とも言われています。ひなびた街道筋にひっそりと建つ記念館から、『愛の小径』と名付けられた散策路を歩き、詩碑の丘を訪ねてみました。
  
 
明治の初期に建てられた造り酒屋の建物を修復・再建した智恵子の生家。旧道沿いの建物は気づかずに行き過ぎてしまいそうなほど、周囲の景観に馴染んでいました。 造り酒屋の屋号は「米屋」。酒の銘柄は「花霞」。軒には新酒の醸成を伝える杉玉が下げられ、二階からは、今にも智恵子が降りて来そうな気配が漂います。
生家の裏には記念館がつくられ、智恵子の紙絵や書簡などが展示されています。 「樹下の二人」の詩碑がある鞍石山までの山道は上り20分、下り15分ほどの散策路。「愛の小径」と名付けられ、季節には桜や紫陽花などの花が道を彩ります。
標高270メートルの頂上付近は、「智恵子の杜公園」として整備され、晴れた日には安達太良山や阿武隈川を望めます。
(写真左上:智恵子の生家、右上:愛の小径、下:鞍石山から見る冬の安達太良山)
 
  
智恵子と光太郎の純愛を偲ぶ
 智恵子と光太郎の純愛を偲ぶ  『智恵子抄』のモデルとなった旧姓長沼智恵子は二本松郊外の造り酒屋の長女として生まれました。明治36年、日本女子大学に入学し上京した智恵子は、そこで油彩画に接し洋画家を目指しました。当時、女性の洋画家は稀有な存在であったようです。明治44(1911)年、26歳の智恵子は雑誌「青鞜」創刊にあたって、表紙絵を描きます。  
 友人の紹介で初めて高村光太郎のアトリエを訪れたのはその年の暮れ。3年後、二人は結婚しますが、父の死など心労が重なり、智恵子は病がちの日々を送ります。  『樹下の二人』の詩は、大正9年、『続ロダンの言葉』の翻訳で収入を得た光太郎が、実家で静養していた智恵子のもとを訪れたときの作。詩の冒頭には《みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ》という近くの安達が原を二人散策した折りの歌が添えられています。  
 光太郎は、智恵子を「奇跡のように現れた」女性と表現しています。「彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と記す光太郎にとって、智恵子の存在はとても大きなものでした。  
 『愛の小径』という名称は、少し照れ臭い気もしますが、生家の菩提寺に至る山道でもあります。よく整備された『小径』を登りきると、見晴らしのよい詩碑の丘に出ます。二人は手を取りあってここまで登ってきたのでしょう。空が近く感じられ、林の向こう遙かに聳える安達太良山。『あどけない話』に「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」と描かれていたのも、すっと理解できる風景です。
 
昭和8年9月塩原温泉での二人
 
二本松市智恵子記念館 
〒969−1404 二本松市油井字漆原町36 
TEL0243−22−6151
※JR二本松駅からタクシーで8分・安達駅からは3分/二本松インターからは車で約10分
 
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