その花は詩歌の世界にだけ可憐な花を咲かせているのだろうか。あまりにも有名でありながら、その正体はよく分からず、想像力を刺激する花かつみ…。安積の里を「かつみかつみ」と尋ねさ迷いながら、芭蕉はついにその花を見つけられない。風狂の姿を晒す芭蕉のただならぬ関心に導かれ歴史を遡ると、思いがけぬ謎とロマンに彩られた万葉の世界が広がってくる。

郡山、郷土史への誘惑 奥の細道への遙かな旅。其の四

須賀川から郡山へ
 芭蕉と曾良は八日間滞在した須賀川、等窮の屋敷を発ち、郡山へ向かう。途中、奥州街道を少し逸れて乙字ヶ滝(石河滝)を見物し、笹川から郡山に足を踏み入れた。今からおよそ三百年前の旧暦五月一日、現代の六月半ばのことである。
 窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。
 『奥の細道』にある郡山の記述はそれだけである。
 二人は檜皮(郡山市日和田)の宿近く、安積山周辺を訪ね、花かつみを探しまわる。しかし、地元の人々に尋ね歩いてもどれが花かつみなのか分からず、いつの間にか日は暮れようとする。
みちのくのあさかのぬまの花かつみ かつ見る人に恋やわたらん 古今和歌集 詠み人しらず
 花かつみとは古来、安積沼、安積山とともに、みちのくの歌枕として詠い継がれていた花である。とりわけ、『古今和歌集』にあるこの歌は有名で、芭蕉が「かつみかつみ」と尋ね歩いたとする記述が、「かつみ」を掛け詞として畳みかけていくこの歌の響きと同じことに気づく。
 奥の細道の旅に立つ前、芭蕉が門人に送った手紙には、「塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみ」の名を挙げてみちのくへの思いが綴られており、花かつみへの芭蕉の関心の強さが分かる。和歌の世界であまりにも有名な花かつみ。ところがその花がどんな花なのか、本当は誰も知らなかったのだ。

郡山市が花かつみに指定しているヒメシャガ

明治9年、明治天皇東北巡幸のさいには、
花かつみとしてヒメシャガが天覧に供された。
淡い紫色の花を咲かせる姿が麗しい采女
(うねめ)を連想させる。
昭和49年には郡山市の花に制定された。

「花かつみ」をめぐって
 花かつみの正体は何か。実はさまざまな論考があり、諸説がある。
 鴨長明の「無名抄」(1212年頃)には、宮中で一条天皇の怒りを買い「歌枕の地を見て参れ」と陸奥の国に左遷された藤原実方(光源氏のモデルともされる歌人で、清少納言とも恋仲であったらしい)が、端午の節句用の菖蒲が陸奥の国にはないことを知り、それなら代わりに安積沼の「かつみ」で代用するよう命じたという逸話が紹介されている。
 実方は宮城県名取市で命を落とし(998年頃)、ついに都へ戻ることのできなかった歌人である。そのあわれさに引かれ、西行は実方の墓を尋ねている(1186年・壇ノ浦の合戦で平家が滅亡する翌年)。ちなみに西行を慕い『奥の細道』の旅を続ける芭蕉も、いずれその地を訪ねることになる。
 こうした故事から花かつみは菖蒲ではなく、その代用になりそうな草花であることが想像できる。しかし、それは本当だろうか。
 西行に先立つ漂泊の歌人能因法師が残した歌には、「はなかつみおひたるみればみちのくのあさかの沼のこゝちこそすれ」とあり、「こもの花さきたるをみて」 の詞書があることから、花かつみが菰(真菰)を指していたとする説もある。しかし、菰はイネ科の植物で、食用されることもあったらしいが、どうもイメージがそぐわないようだ。江戸名所のひとつ、堀切菖蒲園(東京)には、室町時代に奥州安積沼から花かつみの種子を取り寄せ、栽培したのがその始まりとする伝承もあり、だとすれば花かつみとは野花菖蒲ということになる。
 いずれにせよ安積沼と結びつけられるのだから、湿地に咲く花であろう。遠い異郷への旅情をかきたてる幻想の花。どうやらそれは初めから恋心を抱く女性の姿と結びつけられていたようだ。花かつみが初めて登場する万葉集(7~8世紀の編纂だが原本は未発見/平安中期の写本が現存最古)の歌には「をみなへし佐紀澤(平城京北辺地域で沼や陵墓が多い土地・「咲く沢」の意も含まれている)に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも」とある(中臣女朗が大判家持に贈った歌)。

紫香楽宮しがらきのみや木簡の発見
 昨年五月、万葉研究をめぐる大きな発見があったことが新聞で報じられた。滋賀県の紫香楽宮跡で発掘された木簡を調査したところ、万葉集にある「あさかやまの歌」の一部が記されていたのだ。しかも、片面には「なにわづの歌」(万葉集には収載されていない)の一部が記されていた。
 万葉集の歌が書かれた木簡が発見されたのはこれが初めてのこと。遺跡が万葉集編纂とほぼ同時期のものであり、日本最古の歌集や仮名の成立を考えるうえで重要な発見であることは言うを待たないが、この二つの歌は、紀貫之が古今和歌集の仮名序(仮名書きの序文・905年)でわざわざ対にして示し、「歌の父母」として「手習ふ人のはじめにもしける(習字の手本)」と記した歌だった。両歌の関係は紀貫之の創作ではないか、とする意見もあったようだが、木簡発見は対の関係がそれから150年以上もさかのぼる奈良時代に成立していた可能性を示していた。
 公的な場で役人によって朗詠されていたらしい「なにわづの歌」と私的な恋歌としての「あさかやまの歌」の一対の関係。これが奈良・平安期の常識とされていたことを思うと、何か郷土が誇らしく思えてくるが、「安積山」や「山の井の清水」がなぜそこまで都人に浸透していたのか、不思議にも思えてくる。
 の歌の作者は陸奥の国の前采女と万葉集に記されている。万葉集の由縁書きによれば、地方巡視中の高級官僚「葛城王」の不機嫌をなだめようと、以前采女(天皇に仕える女官)を務めていた娘がこの歌を詠んだとある。
 郡山に伝わる伝説では、この娘は春姫という名で、葛城王によって都へ采女として連れていかれてしまう。ところが、春姫は故郷に恋人があり、そのひとのことが忘れられず、猿沢の池に身を投げたように装い、安積の里へ逃げ帰ったという。ようやく故郷へ戻ると、恋人は既に引き裂かれた恋の悲しみから命を落としていた。悲嘆に涙した春姫は山の井清水に身を投げて、そのあとを追うのである。
 ころで伝説に伝えられる葛城王とは、その後の橘諸兄のことである。諸兄は万葉集の選者の一人ではないかともされる人物で、木簡が発見された紫香楽宮前後の時代、中央政治の実権を握っていた。最終的な万葉集編者と現在考えられている大伴家持も諸兄に近い位置にいたのである。当時は激しい権力抗争が繰り広げられていたらしい。聖武天皇による大仏建立は七四三年のことだが、こうした政情不安を鎮める意味もあった。
 気になるのはそうした混乱の中に登場する一人の人物の名前だ。聖武天皇の皇子、安積親王である。その擁立に力を注いでいたのが橘諸兄や大伴家持だと聞けば、好奇心はさらに強く刺激されるだろう。
郡山、新たな物語りへの予感
 奥の細道をかなり逸れてしまったようだ。
 旅立ち前から、名にし負う安積の沼を尋ね、花かつみを自分の目で確かめてみたいと綴っていた芭蕉の願いは満たされない。幻の花を探してさ迷い、幽玄の趣をたたえる歌枕の地、安積の沼地に物狂おしい風狂の姿を晒しつつ、芭蕉は郡山を過ぎゆくのである。
 積山周辺の奥州街道筋には今も松並木の古木が残されており、芭蕉の足跡を彷彿とさせる。さらに時代を遡れば、この地には奥州藤原氏によって整備された奥の大道があり、平泉の栄華を支えた金が、金売り吉次らによって京へと運ばれていたことが偲ばれる。
 みちのくの交通の要衝、郡山の歴史は見つめ直されようとしている。郡山の語源は郡衙とされる。郡衙とは古代律令制度で位置づけられた郡の役所を指す。安積の里は奈良の都と強い結びつきを持っていたことは間違いないようだ。
 一九九六年から発掘調査が続けられた荒井猫田遺跡は、鎌倉時代、郡山に全国でも屈指の大規模な町が存在していたことを教えている。また、九一年には東北最大の大安場古墳も発見された。この地を巡る物語は、何か大きく様変わりしていく予感がする。

大安場古墳

大安場古墳は全部で5つの古墳からなり、1号墳、2号墳は
国の史跡に指定された。特に1号墳は全長83m前後、
前方部が2段、後方部が3段の東北地方最大の
前方後方墳で、1991年に発見された。
古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と考えられており、
後方部の墳頂からは長大な木棺が、副葬品としては
腕輪形石製品(石釧・いしくしろ)や武器・農工具が
発見されている。
2009年4月に大安場史跡公園としてオープンした。
郡山市街地より49号線をいわき方面に車で約20分。

石釧(大安場古墳出土)

淡いエメラルド色をした緑色凝灰岩製盤で、東北地方では極めて珍しい出土例。北陸地方で作られ、近畿地方の有力豪族から贈られたものと考えられている。ガイダンス施設はこの石釧をモチーフにしている。

 

荒井猫田遺跡(発掘調査時)

ビッグパレット建設時に発見された中世の巨大な町跡。内陸部の大規模な町跡遺跡としては全国でも初めての発見。戦乱の中に失われた郷土史へのロマンをかき立てる。中心を縦断するのが奥の大道。