農業をめぐる話題が思いがけず賑やかなことに驚く。インターネットに目を向ければ、農産物のネット直販は想像以上の活況ぶりだ。車を少し走らせれば、高速道路のサービスエリアや道の駅でも地元の新鮮な野菜が並べられるようになった。農家民宿や地産地消レストランも各地に生まれ、ライフスタイルとして農業を取り入れた暮らしを始める人たちもいる。ところが農業の実際は、当事者以外には意外に分からないことも多い。蕎麦店開業を見据え、里山に移住して本格的に蕎麦栽培と野菜づくりを始めたあるご夫婦のもとを訪ね、あらためて農とその周辺の話題を探ってみたい。

里山暮らしの農的生活事始め/農と食の魅力を探りながら

里山暮らしが始まる
 病気や害虫から守りながら苦労して育てた野菜たち。地元の畑から生まれたみずみずしい旬の味わいは格別だ。家庭菜園で収穫の喜びを味わうのもいいが、もっと大がかりに里山暮らしを楽しみながら、土を耕し、野菜を育ててみたいと考える人たちもいる。いわゆる新規就農はそう簡単なことではないが、スローフードやロハスといった時代の流行とも相まって、田舎暮らしや農業をめぐる話題は面白い。

蕎麦店としての正式な開店はまだだが、今でも人伝てに
訪れる蕎麦好きや友人達に蕎麦を振る舞うというご夫妻。
里山から湧く井戸水を使い打ち上げた蕎麦は清冽な旨さと
気品を湛える。薬味は辛み大根。ご主人は畑で育てた旬の
野菜や、山菜、きのこも供したいと考えている。
もしも自分が理想の土地を見つけ里山暮らしを始めると
したら、どんな人生を送るだろうか。
そんな想像力を刺激される。

 阿武隈高地の里山に移住した夫妻がいる。二人はもともと自然の中で時間を過ごすのが好きだった。二十年近く前、ご主人の勤務先の移転にともなって東京からいわき市に転居、田舎で蕎麦屋を開く夢を持つようになる。
 全国のこれは、という蕎麦職人を訪ね歩いた。お陰でご主人は玄人はだしの蕎麦打ちになったが、同時に粉へのこだわりも強くなり、蕎麦栽培にも魅せられてしまった。
 山間部に農地を借りて蕎麦栽培を始めた。そして暇があれば理想の定住地を探し歩き、ついに阿武隈高地のとある村にたどり着くことになる。
 国道沿いの日当たりのいい山峡の土地で、いわゆる耕作放棄地だが、清冽な湧き水を得られるのが大きな魅力だったという。勤務先を退職して五反分の土地を手に入れた。自分でも大工仕事を習い、地元の大工と古民家を再生した。店舗兼住宅で暮らし始めて今年は初めての冬。雪に包まれた里山のなか、口コミで訪れる人たちに蕎麦を振る舞い、静かに春を待つ。
畑で野菜を育ててみる
 畑で最初に育てたのは枝豆と里芋。ところがイノシシが育ち始めた作物を食べてしまう。実際に里山で暮らし、農地を耕してみると、思わぬ困難に見舞われる。農業で生活を支えていこうとしているわけではないから笑い話にもなるが、営農を本気で考えるとすれば、ことは深刻だ。
 そもそも購入した農地に建物を建てる許可を得るだけで審査に一年以上の時間がかかっている。農業や商売を始めようとして、入り口から躓くのでは叶わない。『もう少しスムーズにことが進めば』、という正直な愚痴もこぼれるが、素人が農業の真似事をしようとすれば、高いハードルがあるのは十分に覚悟もしている。
 二人は山菜とともに土の力が感じられる野菜を、蕎麦とともに供したいと考えてきた。野菜はいろいろな作物を育ててみたい。有機栽培も試すつもりだが、農薬や科学肥料が生まれる以前、作物はすべて有機だったわけだから、それほど特別なこととは考えていない。実際に蕎麦と野菜をここで育てながら、失敗も成功も含めてどこまでやれるか、無理せずに土と向き合ってみたいのだ。
 「新鮮野菜はスーパーでも買えるけど、農家と知り合いになって、畑でお年寄りが当たり前に育てた野菜を頂いたら、とても美味しかった。農作業を手伝ってみると、畑で汗を流した分、野菜も美味しくなるし、いろんな栽培の工夫をする楽しさも教えられました。ただ、作物を育てるのは、失敗するとやり直すのに時間も費用もかかりますから、苦労の多い話です」
 そう語る二人は、この土地にじっくりと腰を据える。地元の人に習って椎茸の栽培も始めるつもりだ。向かいの山を手入れし、冬を前に雑木林から伐り出した薪が、ストーブのなかで赤々と燃える。
野菜の種事情、今昔
 野菜を育て始めた頃、二人は不思議なことに気づいたという。野菜の種を当たり前のようにホームセンターで購入しているが、昔の農家は自家採種していたのではなかったか。今の農家はどうして種を買うのだろう。

有志の仲間たちと岩代の伝統
野菜を発掘した菅野寿雄さん
(現『あぶくま伝統野菜をつく
る会』会長)

 調べてみると、現在、スーパーなどに並ぶほとんどの野菜はF1品種と呼ばれるものだという。それらは消費者のニーズに合わせて味や品質を保ち、収量も多く、生産者にとっても育てやすい野菜だが、1代限りの種から育てられているから、毎年種は買わなければならないのだ。もしもその種から2代目を育てると、メンデルの遺伝の法則が働き、全く形質の変わった劣性の野菜ができてしまう。では、種を買わずに自家採種する野菜は日本にはもうなくなってしまったのだろうか。
 近年注目されている伝統野菜が、実はそれである。地野菜とも呼ばれる、いわば在来種の野菜だ。農家で細々と栽培され、保管されてきた種は、その土地ならではの形質を保ち、遺伝的に固定化された野菜を栽培できる。風土に鍛えられてきたから、病気にも強い。京野菜や加賀野菜はその代表だが、郡山市の阿久津曲がりねぎや会津地方の雪中あさつきなど、伝統の野菜はもともとそれぞれの土地にあるのが当たり前の姿だった。
 放っておけば絶滅しかねないこうした食の再発見は、実は世界的な規模でも進められている。スローフード発祥の地、イタリアのスローフード協会は『味の箱船』(アルカ)プロジェクトとして、地域固有の食を守る運動を進めてきた。日本国内でもすでに20品目を超える産品が認定されているというから、すごい。そんなことに感心していると、近年、阿武隈高地の岩代地区でも伝統野菜の発掘が進んでいると教えてくれる人がいた。灯台もと暗し。さっそく出かけてみることになった。
伝統野菜と自家採種
 旧岩代町は歴史の古い町だ。岩代役場近くの小高い丘の上には小浜城の本丸跡が残る。荒ぶる若き伊達政宗はこの城を奪取して、二本松やその周辺を制覇する足がかりとした。それまでの城主、大内定綱は城を政宗に明け渡して会津へ落ちのびるが、その際に中国から僧が持ち帰った西念寺の柿を携えていく。それが今に伝わる会津みしらず柿だと言うが、その原木の子孫は今でも寺でたわわに実をつけるという。
 二本松市街地から東に車を走らせる。安達ヶ原の鬼婆伝説を伝える黒塚を過ぎ、なだらかな阿武隈の山並みに入る。懐かしさを感じさせる風景が広がる。お話しを伺ったのは菅野寿雄さん。4年ほど前に仲間たちと『あぶくま野菜図譜をつくる実行委員会』をつくり、岩代の伝統野菜の栽培状況を調査した。
 「調べてみると複数の農家で手応えがありました。茶肌や黒肌の大豆、里芋などは100年以上も自家採種している農家があり、キュウリやカボチャでも、この地域ならではのものが見つかりました」
 それらの野菜を成分分析してみると、標準よりもミネラルも豊富に含まれていて、機能性食品としても魅力的な、力のある野菜なのだという。
 菅野さんたちは、『あぶくま伝統野菜をつくる会』を発足させ、伝統の豆を用いた納豆をつくった。試しに頂いてみると、しっかりとした大粒の豆の存在感がある。豆と大地の豊かな滋味がそのまま凝縮されている感じだ。
 「何よりも地元の味を子供達に味わってもらい、しっかりと記憶してほしいと願っています」
 菅野さんたちは、こうした野菜で地元の伝統食を復活させる試みも進めてきた。伝統野菜は限られた地域の風土や気候のなかでしか受け継ぐことができない野菜だ。そんな地域固有の味が、100年にもわたる暮らしの記憶とともに、次世代へと伝えられていく。
 スローフードの流れは、世界的な潮流としてあるが、日本の農家も決して負けてはいないようだ。絶滅しかけていた伝統の野菜たち。農家の高齢化や過疎化が進む一方で、里山の自然や環境、地域の文化とも深く関わりながら、日本の食は見直されていく。農業をめぐる風景がこれからどう変わっていくのか、いよいよ目が離せなくなりそうだ。