「一般財団法人 脳神経疾患研究所」が掲げる理念は、「PRO VONO AEQUNOROSA」。これはラテン語で、直訳すると「すべては 患者さんのために」。つまり、病院、医師、医療関係者の存在意義は患者さんのためでしかなく、患者第一主義の医療を実現したいという意味が込められている。
 渡邉一夫理事長は、ある取材に答え、「いちばん最高と思われる診断と治療を行えるようにすることが、医療機関としての役目です」と強調する。
 その精神は『南東北脳神経外科病院』開院以来、南東北グループに貫かれ、関連の福祉事業でも「すべては利用者さんのために」として実践されている。
 現在、総合南東北病院は、外来で1日1500人、449床の入院ベッドは毎日ほぼ満床。救急車の受け入れは1年間で6000台に達し、救急外来患者数は2万人に及ぶ。

 
 今年は『総合南東北病院』の開設から30周年を迎える記念すべき年です。この30年を振り返るとき、私たちを支えて下さった多くの皆様の存在に思いを致します。多くの市民の皆様の信頼に感謝し、より一層地域医療への貢献を果たしていきたいと考えております。
 さて、今年は南東北グループにとって大きな節目の年になります。
 首都圏においては2010年4月に旧慈生会病院を『東京病院』としてリニューアルオープンし、また、2012年には川崎市麻生区に『新百合ヶ丘総合病院』のオープンを控え、現在、急ピッチで準備を進めているところです。南東北グループといたしましては、診療の羅針盤『東京クリニック』とともに、これらが相乗効果を生み、より良い医療サービスの提供につながるよう、有能な人材の確保、養成にも努めてまいる所存です。
 郡山市の本院では、職員1000人の多くが南東北病院人としてプロと呼ぶに相応しい集団に成長してまいりました。誇りをもって医療にあたり、働く意欲を高く保つことは、質の高い医療を提供することに繋がります。今後は、より働きやすい職場づくりに努め、経営改善、業務改善を通して民間の医療機関としてのポテンシャルを最大限に発揮し、患者様の期待に応えうる総合病院として自らの役割を果たしていきたいと考えております。
 医療の柱としての予防医学、地域を支える救急医療、福祉にも連続する回復期リハビリ、そして先進医療は「どんな病気でも治す」という私たちに与えられたミッション(使命)を果たし、日本人の三大疾患と呼ばれるがん、心疾患、脳血管疾患の克服を目指す南東北グループの理念そのものにほかなりません。
 なかでも、がんの診断と治療においては、PETがんドックを軸とした健診、『南東北がん陽子線治療センター』が担う最先端の治療、そして外科や内科、放射線科など総合南東北病院が持つ質の高い医療が総合力を発揮し、“民間初のがんセンター”として世界の関心を集めております。
 しかし日本の医療を考えるとき、少子超高齢化社会が進み、医療費と社会保障費で毎年1兆2000億円が自然増加するという状況のなか、その環境は厳しさを増していくことが予想されます。
 そこで、経済や社会のグローバル化に対応するとともに、海外にも私たちの拠点を持ち、私たちの医療と福祉の理念を世界に広め、南東北グループの発展にも繋げられるよう新たな取り組みにも着手したいと考えております。
 2月からは東京に『国際医療事業部』を開設し、ロシア、中国、インド、アセアン、中東、南米、アフリカ、米国、EU、東欧諸国との交流を活発化し、先進医療、教育、予防医学などで協力関係を進めてまいります。
 こうしたビジョンのもと、私たちは院是である「すべては患者さんのために」をひとときも忘れず努力していかなければなりません。これからの30年のためにも、もう一度原点に戻り、患者さん、利用者さんのためにすべてをつくし、さらに大きな目標へ向かって進んでいく覚悟です。
 医師、看護師、職員ともども初心を忘れず、新たな歴史を築いてまいります。本年が新たな飛躍への画期となるよう、皆様のご指導ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。
 

南東北グループ30年の歴史

予防医学とともに民間初の陽子線治療で日本のがん医療をリードする南東北グループ。その中核施設『総合南東北病院』が今年12月、開設30周年を迎える。日本人の三大疾患(がん、心疾患、脳血管疾患)の克服を目指して日々の活動を積み重ね、いつしか世界水準の医療サービスを提供するまでに成長した同グループの30年にわたる足跡を振り返ってみたい。
脳卒中撲滅へ向けた挑戦

南東北脳神経外科病院落成式で玉串を献げる渡邉一夫院長

 総合南東北病院の前身「南東北脳神経外科病院」が現在の場所に誕生したのは、1981年(昭56年)12月1日のことでした。空から小雪が舞うなか、開院式が行われたといいます。
 開院時は渡邉一夫理事長による個人病院としての出発でした。当初の使用許可ベッド数は60床、診療科目は脳神経外科を中心に、神経内科、外科、内科の4科。脳神経外科の専門病院として脳卒中、脳腫瘍、交通事故による頭部のけがを中心とした治療を行い、脳卒中撲滅へ向けた挑戦が始まります。
 当事、脳卒中(脳梗塞・脳内出血・くも膜下出血など)は日本人の死因の代表的なものでしたが、脳神経外科という診療科そのものはまだまだ一般に馴染みのない時代でした。なかには、脳病院(精神科)と勘違いする方も少なくなかったそうです。
 その後、1984年には一般財団法人の認可を得、診療科も89年から増設に踏み切り、病床数も現在では449床に増え、地域を代表する総合病院となっていくのです。
 渡邉理事長は開院当初から脳卒中予防や啓発に向けた講演活動に意欲的に取り組み、最新鋭の医療機器の導入も果敢に進めていきました。

病院開設当時、医師、職員と病院屋上にて

 1984年には全身の断層撮影を行うCT(コンピュータ断層撮影装置)と、脳内の血流のカラー表示を可能とする局所脳血流断層撮影装置を県内の病院で初めて導入しました。こうした検査機器は脳卒中や脳腫瘍など緊急を要する診断の時間を飛躍的に短縮し、手術部位の確定に力を発揮することになるのです。高精度であり同時に検査時の苦痛を軽減させる画像診断装置は、最高の医療を提供するための環境づくりに欠かせないものでした。
 1984年には発見も難しく、世界でも成功例がなかった「脳動脈奇形」の手術に成功、新聞紙上に大きく取り上げられ、脳神経外科の専門病院としての知名度も高まっていきました。
民間の力で最高の医療を
 ところで、渡邉理事長が脳神経外科医を志したのは、死亡率が日本一高い脳卒中を撲滅したいと考えたからでした。現在、わが国の死亡原因の第1位はがんですが、当事は脳卒中が発症率、死亡率ともに一番高かったのです。
 そんな時代、福島県立医科大学を卒業した若き渡邉一夫理事長は、秋田大学で脳神経外科医として研鑽に励み、1980年には医学博士の学位を取得しました。
 当事の秋田県は世界一脳卒中患者が多く、日本の脳卒中治療のメッカでした。全国から集まる脳神経外科医は言わば脳卒中と闘う同志。神の手と賞賛される世界的脳神経外科医福島孝徳医師とはその時期に出会い、意気投合。「すべては患者さんのために」という医師としての共通の理念をともに確認しあったといいます。
 理想の病院を築きたい、という渡邉理事長の思いは、その頃から芽生え始めました。大学医学部での脳卒中治療に限界を感じ始めたからだといいます。  当事の大学病院は縦割りで脳神経外科は医局の中の一部分に過ぎず、思うような診療が行えないという状況がありました。脳卒中は、時間との勝負です。脳卒中患者を助けたいと思っても、「すぐに診察できない」、「すぐに手術ができない」、「すぐに救急車で運び込めない」といった制約に、釈然としない日々が続きました。
 そこで、「こうした医療環境では本当に脳卒中を解決することはできない」と考え、大学を退職、秋田県厚生連 雄勝中央病院 の脳神経外科部長などを務めた後、柔軟な民間の発想で理想の医療を実現させることを決意し、「南東北脳神経外科病院」の開院に至るのです。
 脳卒中とは、すなわち救急医療にほかなりません。開院当初から、南東北脳神経外科病院では24時間診療体制を整えました。渡邉理事長はほとんど病院に泊まり込むような毎日を送り、「救急車は一切断らない」という姿勢を貫いていきます。その結果、救急車の受け入れ台数は現在、郡山市の総合南東北病院だけでも年間5000台以上に及んでいます。
 また、脳卒中では治療や手術後の機能回復訓練(リハビリ)も一対のものとして力を入れる必要があることから、回復期リハビリや在宅医療へと発展していきます。こうした介護、福祉分野と隣接する領域は、高齢化社会の進行ともあいまって南東北病院グループの特色のひとつとなっていきます。
 歴史を振り返るとき、渡邉理事長を中心に、医師や看護師、技師、薬剤師や病院職員たちが日々の激務に耐え、献身的に地域の医療を支えていたことに思い至ります。医療人たちの熱い思いが、一枚一枚の写真のなかに息づいているようです。
 「すべては患者さんのために」。脳神経外科の専門病院として出発するなかで繰り返し咀嚼され、鍛えられてき精神と理念は、やがて福島県内でも一、二を争う総合病院へと結実していくことになるのです。