「白河以北一山百文」という言葉がある。河北新報の社名の由来でもあるが、そこには明治維新以来、賊軍として軽視されてきた東北の歴史とともに、屈辱を忘れまいとする東北人の反骨の意思が込められているという。
東日本大震災と原発事故の衝撃は大きかった。この現実を受け止め、未来へと乗り越えていくためには今、何が必要なのか。
一人の歴史作家のもとを訪ね、会津藩の終末から復興への道筋を通して、福島再生への思いをお話しいただいた。

 

東日本大震災からの再生

一冊の本が緊急上梓された。『東北は負けない』。郡山市在住の歴史作家、星亮一氏が東北の被災地をめぐり、その現実と人々の姿を記録したものだ。「私は地震と津波の発生から四カ月の間に福島県、宮城県、岩手県の被災地を見て歩いた。惨たんたる光景に涙が流れた。」(『東北は負けない』はじめに)とその冒頭には記されている。
 
かつて、作家の司馬遼太郎は『白河以北一山百文』という言葉をとりあげ、東北が明治政府に冷遇されてきた歴史を記した。その原因は戊辰戦争である。
 
幕末、会津藩は官軍、薩摩・長州軍と戦わざるを得なくなり、敗れた。『白河以北』というのは、勝利した薩摩・長州勢が、「東北の山は一山百文の値打ちしかない」と蔑視した言葉だった。その言葉を胸に東北人は復興へと向かい、その後の発展があった。だが、巨大地震は再び東北を打ちのめす。
 
3月11日、午後2時46分頃、マグニチュード9・0の巨大地震が東北地方を震撼させた。郡山市中心街のビルの6階にある星亮一氏の仕事場も激しい揺れに見舞われ、壁を埋め尽くす書棚からは大量の本が雪崩落ちた。テレビ映像で流される巨大津波の映像、そして福島第一原発の水素爆発。衝撃の大きさに書きかけの原稿を中断した。
 「じっとしていられなかった。新聞記者をやっていたから現場を見たかった。ガソリンのある人に頼んで直後から被災地をまわった。三陸にも三回行った。新地町、南相馬市や、原発の20キロ圏内にも入った。1週間前にも富岡に入り、現地を見てきた」
 
富岡町は原発周辺20キロ圏内の避難地域。そこには奇妙な空間が広がっていたという。  「誰もいない。これは現実だろうか。空っぽの光景。群れをなした牛や豚が草ボウボウの水田に寝そべって何かをはんでいた。広大な山河も海も汚染されている。果たして除染などできるのだろうか、と正直思った。目の前に原発があって、そこでまだ燃料棒が燃えている」
 
星亮一氏は「何故こんなことが起きたのか」、という思いを抱いたという。
「歴史を遡ると、双葉郡の海岸沿いの地域は過疎だった。人口も少ないし働く場所もない。そこに原発の話があり、相双地区に白羽の矢が立った」
 
地域では原発に依存した経済が50年近く続いてきた。だから住民には複雑な感情がある。高度成長へ向かう時代。当時の地域は貧困以外の何物でもなく、若者たちは職を求め、ふるさとを離れるしかなかった。その後、原発をめぐっては東海村の臨界事故が起こり、事故隠しも問題とされた。国や東電に対する不信も膨らんだが、原発やその関連企業で多くの人が働いてきたのも事実だ。
 
「だから、原発と共生してきたという側面もある。ただし、いったん事故が起きるとこういうことになるのも事実。将来的には自然エネルギーの方向に進むとしても、中国など、原発を増設している国もあるし、ドイツも原発の電力を輸入している。だから、ここには微妙に複雑な問題があるんですよ」
 
フクシマの問題は簡単に語り尽くせるものではないだろう。だが、フクシマが負の存在として世界から置き去りにされることがあってはならない。問題を紐解き、自らの力によって立ち上がる復興への歴史はすでに始まっている。
 
ある日、星亮一氏のもとに関西の友人から電話が入ったという。「東北人はおとなしすぎる」と。それに対して氏は答える。「馬鹿を言うな。持続する怒りだ」と。

『私は悲しみを乗り越えて立ち上がる東北人の魂を信じている。しかし、福島県では様相が一変する。放射能の脅威にさらされ、悲鳴と怒りが充満している』 (『東北は負けない』より)