東日本大震災で浪江町沿岸部は津波により壊滅的な被害を受け、多くの尊い人命が失われた。その直後に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故では、浪江町全域が警戒区域とされ、全町民が避難生活を強いられてきた。福島復興へのひとつの視点として、二本松市を拠点として伝統工芸再生に取り組む大堀相馬焼と窯元たちの現状を見つめてみたい。

大堀の里を訪ねて


大堀相馬焼協同組合工房(二本松市)で作陶を続ける根本清巳氏
相馬焼の職人として窯元を支え、伝統の技術を継承している。

 青いひび割れと走り駒の絵付け、二重焼の特徴で知られる「大堀相馬焼」。300年以上の歴史を誇る国の伝統的工芸品である。旧相馬藩(中村藩)の領地浪江町大堀一円で、半農半陶の窯元たちによって現代に伝えられてきた。
 青灰色で器が二重になったその湯のみを、生前の父が愛用していた。ずっしりとした重さが、いつしか亡くなった父の姿と重なって思い出されるようになり、3年ほど前にも大堀を訪ね、湯飲みと茶碗を買い求めた記憶がある。
 原発から10キロ圏内にある大堀の里は地震と第一原発の事故で大きな被害を受けた。放射性プルームは山裾にある里を直撃し、窯元や陶工たちは避難の長期化を覚悟せざるを得なくなった。
 陶芸はその土地の風土と切り離せない部分がある。窯元のなかには浪江町の原土にこだわって作陶を続けてきた作家もいたが、原発事故で大堀の土は使えなくなった。
 警戒区域が再編される4月1日の直前に大堀を訪ねた。荒れ果てた大堀の里に人影はない。店頭の棚に展示されていた大皿や壺は床に投げ出されて壊れ、時間が止まったまま2年の歳月が流れた。赤い火が燃えさかっていた登り窯の一部は崩れ落ち、薄暗い小屋のなかで静まりかえるばかりだ。
 気がつくと手持ちの線量計は20マイクロシーベルト(毎時)近くを示している。雲間から洩れた早春の光を浴びて桃のつぼみがゆるみ始めていた。
浪江町の区域再編と帰還
2013年4月1日から国の基準によって、浪江町は三つの区域に再編された。年間20ミリシーベルト以下の避難指示解除準備区域、20~50ミリシーベルト以下の居住制限区域、50ミリシーベルトを超える帰還困難区域の三つである。三区域への再編は国の復興計画に基づく区分である。今後数年をかけて線量に応じた除染やインフラの復旧が進められることになると言う。
 警戒区域の再編は、住民の帰還がすぐにでも始まるかのような印象を与えるかもしれない。だが、現実は少し違っている。津波に襲われた浪江町の海岸地域、請戸地区からは白いカバーで覆われた1号機建屋の屋上部分が肉眼で見える。原発からは約8キロの距離だ。ふるさとに戻りたい気持ちが強くても、元の暮らしが安心して再開できるわけではない。原発事故の収束も信用できない状況のなかで、どうして人々に帰還を強いることができるだろう。
 町は住民が暮らすことができる社会環境の回復と整備を進めながら、原発のリスクと、国の工程表に基づく除染の結果を見極めようとしている。


浪江町大堀の里の窯元の店内。
震災直後の姿を今もとどめている。


請戸の田植え踊り/なみえ3.11復興の
つどい(2013年3月16日)


天然鮎がのぼる清流高瀬川渓谷(震災前)


露店が町を埋め尽くす十日市(震災前)


請戸の安波祭(震災前)


泉田川の鮭のやな場(震災前)


固有の青磁釉を使う大堀相馬焼。窯出しのとき、表面に繊細なひび割れが広がり、高く澄んだ貫入音を響かせる。ピーンというその音は「うつくしまの音30景」にも数えられてきた。大堀相馬焼は原発事故によって生産拠点を失った。事業再開を目指して大堀相馬焼協同組合が二本松市に新たな工房を築いたのは昨年の4月。ようやく懐かしい貫入音も蘇り、浪江町民に希望の明かりを灯すことになった。だが、生まれ育ったふるさとにはいつ帰還できるかも分からない。産地を失った伝統工芸を未来へ継承するためにはどうすれば良いか。陶芸家が作陶に向き合える環境を再生するためには…。窯元たちそれぞれの苦闘も始まっている。

大堀相馬焼の再生

大堀の里は帰還困難区域になった。今後除染が進められるにしても地域の再生がいつになるのかは分からない。窯元たちは難しい現実をつきつけられた。
 新たな土地で窯を再興しなければ、大堀相馬焼の火は途絶えてしまう。だが、東電の賠償だけでは新たに窯を再開することは難しい。国の支援もあるが、それも十分なものではない。
 しかも、青ひびをつくりだす青磁釉は町で採れる砥山石を原料とするため採石や入手ができなくなってしまった。ほかの釉薬で代用しても独特の青ひびのある風合いは出せない。そのため、代替釉薬の開発を県の研究機関が支援し、成分分析と再現実験が行われることになった。釉薬はその結果、一応の再現に成功することになる。
 大堀相馬焼協同組合は、昨年の4月、浪江町が役場機能を移転した二本松市に新しい工房を築いた。避難生活の長期化が予想されるなかで、組合員の拠り所として製作や販売の再開を目指すためだ。
 相馬焼は蘇った。しかし、協同組合の二つの共同窯は小さく、量産が充分に可能な規模ではない。大堀ではそれぞれの窯元が持つ窯もこの倍の大きさは珍しくなかったし、登り窯もあった。新しい工房には泊まり込んで作業できる施設もない。熟練した職人たちもちりぢりに避難してしまい、人手もなくなっている。
 「今やれることをやっておかなければ、相馬焼の伝統も途絶えてしまいかねない」
 協同組合では半谷理事長を中心にそう考えて走り続けてきた。だが、心身ともに皆、疲れもたまっている。
 浪江町が再生するにしても、半世紀ではすまないかもしれない。それは一時的な避難、という宙づりの暮らしではしのぐことができない長すぎる時間だ。原発事故は平穏な暮らしを一瞬で奪い、それぞれの人生を弄ぶ。
 原発周辺の商圏は完全に失われ、廃業せざるを得ない事業者もいる。そればかりではない。不条理は町民の暮らしにも影を落としている。避難先で生活再建しようにも、東電が示す賠償では新規に家を建てることもできない。現状の賠償は帰還を前提として算出されるからだ。
 そんな状況のなかで、どれだけの後継者が家業を引き継げるだろうか。人々の悲痛な声が聞こえてくる。


伝統と創造の狭間で

「工房の設立は伝統を継承する大切さを思い起こさせてくれた。しかし、それは再生への出発点にようやくたどり着いたにすぎない」(半谷理事長)  民法上の時効は3年。延長を求める特例法案の国会審議も進められているが、いまだ解決策が示されないまま、時間だけが過ぎていく。難民という言葉もリアルなものに感じられるようになってきた。
 相馬焼の窯元のなかには、新しい土地に窯を築き、独自に作陶を再開した人たちもいる。自分の窯がなければ、微妙な温度管理も自由にはならないし、そもそも創作に向き合うことは難しい。
 だが、大切なのは、それぞれが大堀相馬焼をルーツとして作陶を続けていることだ。そこには目に見えない求心力がある。ふるさとの土を離れて、それぞれが苛酷な運命を生きることは、新しい何かを生み出す力にもなる。
 陶芸は人々を魅了する。趣深い景色を生み出す炎と土の芸術。大堀相馬焼の窯元たちが七日間以上をかけて薪をくべ、火と格闘してきた登り窯も使えなくなった。だが、場所を変えて登り窯も燃えさかる炎も再生することはできる。
 伝統と創造の狭間で、大堀相馬焼の新しい歴史が始まることを願う。


陶吉郎窯 福島県いわき市江畑町塙72-30

大堀相馬焼「陶吉郎窯」の窯主として伝統を継承しつつ、 再生した登り窯による焼締め作品、飴釉作品、青彩油滴作品などを中心に作陶を続けてきた。日展入選19回の実績を誇る。平成2年にはキリンビール夏のキャンペーン「陶製ゴブレット」を制作。
 3.11以降は避難生活を強いられたが、作陶へのやみ難い思いから、3か月後にはいわき市江畑町に工房を据え、いち早く製作を再開した。工房の広い和室には、被害をまぬがれた作品も数多く展示されている。
 現在は繊細な造型をほどこした象嵌作品に挑み、今年の第52回日本現代工芸美術展ではNHK会長賞に選ばれている。


大陶窯 福島県双葉郡浪江町大字小野田字清水35(転居地未定)

 1972年生まれ。愛知県瀬戸市で窯業を学んだ。父は陶俊明氏。「大陶窯」では伝統的な作品を制作するかたわら作家活動を開始。白を基調に独自の色味と温もりが感じられる白磁作品が人気を集めている。朝日現代クラフト展、ビアマグランカイ金津の森酒の器展入選ほか。
 「大陶窯」は、開窯100年を記念して盛大なイベントを予定していたが、原発事故で中止せざるを得なくなった。現在、トシヒロ氏は愛知県瀬戸市の工房に制作の拠点を移し、父の俊明氏は福島県大玉村に暮らす。俊明氏は大堀相馬焼協同組合の共同窯を利用して少しずつ作陶を再開する予定。「大陶窯」の再興はまだ模索中だ。


吉峰窯 福島県双葉郡浪江町大堀字後畑148(転居地未定)

 震災・原発事故のあと、津島から小高、鹿島などを経由して土湯温泉の知り合いの家に。都合7カ所ぐらいを転々とした。避難生活のなか、旧知の益子焼窯元共販センターから誘いがあり、陶芸教室で指導にあたっている。貫入青磁、花文貫入、炭化窯変などを得意とする。
 事故直後は大堀に戻る考えもあったが、次第に無理だと思うようになった。息子さんも陶芸作家だが、今は別々に避難している。
 家族が一緒になって作陶に打ち込める工房の建設を目指して、これまで土地を探してきた。「焼き物をするには400坪の土地が必要」であり簡単ではないが、「吉峰窯」再興に情熱を燃やす。


近徳 京月窯 福島市飯坂町平野字道南4

 震災後の12月、避難先を転々とするなか、福島市飯坂町のフルーツライン近くに古民家を見つけ、「京月窯」を再開した。先の見えない生活のなかで疲れと焦りを感じていたが、いつまでも被災者ではいられない、前に進まなくては、と決意しての開窯だった。
 新しい工房兼店舗はモダンなデザインで、黒い棚に色鮮やかな陶器が並ぶ。落ち着いて珈琲も楽しめ空間設計が魅力的だ。女性陶芸家らしい優しさを備えた、人が集い安らかに語らえる“場”でもある。
 工房を訪ねると、浪江町から避難しているカップルが、結婚式を前に引き出物の打ち合わせをしていた。そんな光景が相応しい。


震災前、浪江町ではそれぞれの窯元や作家達が作陶の可能性を探る独自の活動も続けられてきた。
 そのなかに、毎年秋口に開かれていた「陶季味」展がある。
 陶季味会員(竹鳳窯・吉田忠利、明月窯・長橋明人、いかりや窯・山田慎一氏)を中心に、大堀相馬焼の若手陶芸家有志が参画して開かれてきた新作陶芸展だ。
 「陶季味」会では福島県ハイテクプラザの支援を受けて商品開発プロジェクトに取り組み、新しいデザインのブランド開発も進めてきた。


震災後にも新しい動きは生まれている。松永窯の松永武士氏がプロデュースした新商品「SAKURA」は大河ドラマ「八重の桜」の公募コンペ「八重セレクション」クラフト(工芸品等)部門に選定され国内外に販売されることが決まった。
 また同様に、松永武士氏は震災で割れた破片を使ったアクセサリーのブランド「Piece by Piece」をリリース。Yahoo!の東北ものづくり特集にも組み込まれている。
 震災で砕けた大堀相馬焼の破片を丹念に加工し、「走り駒」をデザインしたものだ。


一方、避難生活を続けながら東京で陶芸講師を務める栖鳳窯・山田茂男氏は、講座に参加された受講生たちに原発事故によって避難を余儀なくされた町民の現状を最初に語るという。
 東京で暮らしていると、原発事故が風化してきているのではないかという実感があるからだ。
 山田氏は全国に避難している浪江町民の心の支えになればと、「浪江焼麺太国」のメンバーとしてB1グランプリにも出場、「なみえ焼きそば」を通して町の存在を全国に発信する活動にも力を注ぎ、仲間達とともに東奔西走している。会場のブースでは、大堀相馬焼の展示や実演を行うこともあり、浪江町の伝統文化の紹介にも努めてきた。
 大堀相馬焼協同組合でも、二本松市での「おおぼり復興まつり」をはじめ、各種団体の協力のもと、東京での「ろくろ実演」や販路開拓、海外の支援団体の招聘に応えて若手作家をヨーロッパに派遣するなど、大堀相馬焼の復興と情報発信への取り組みを進めている。




 避難や帰還の状況がどうなるかは分からない。だが、当分は帰れない状況のなかで、伝統の継承や産地の将来を危惧する声もある。(注)
 やむを得ないことだが、福島市、二本松市、本宮市、郡山市、矢吹町、南相馬市など、窯元たちは別々の場所で再建に向けて動き始めた。
 今後、大堀相馬焼という産地ブランドはどのような運命を迎えることになるか。原発事故後の希有な状況のなかでは、国や自治体との交渉、材料の調達や販路の開拓にも特別な労力を費やす必要もある。そのための拠点づくりも重要だ。
 だが、それぞれの陶芸家、窯元たちの制作環境、暮らしの再生がなければ作陶さえも持続できない。創作にはそれぞれに道があり、生き方もある。ひとつの考え方だけが正しいわけでもない。
 産地という場所を失ってしまった陶芸の未来。原発事故によって、それぞれが重い課題を課せられてしまった。